夏川草介 特別読切「青空」

『コロナ』第1話読み切り


 それから二日後の一月七日、一都三県に限定された緊急事態宣言が発出された。

『緊急事態宣言』という強烈なフレーズが、しかし驚くほど切迫感のない空気を伴ってマスメディアを飾っていた。

 限定的な宣言の内容が、どういうものであるか、敷島は確認していない。ただ、その内容がどうであれ、今必要なことは危機感を感じ、冷や汗を流すということであるはずなのに、町には人が往来し、浮薄な冷静さがメディアを包んでいる。

 人は恐怖を感じれば、悲鳴を上げるか沈黙するかどちらかのはずであるのに、そのいずれの景色も見えない。

 現場を駆け回る医師たちは、もはや何かコメントをしようともしない。

「出ないよりはマシと考えるべきでしょう」

 そんな外科部長の千歳のつぶやきが、皆の気持ちを代弁していた。

 外科の千歳は龍田の上司であるが、かなり初期から三笠や敷島とともにコロナ診療を支えてきたひとりだ。豊かな黒髪と長身のおかげで年齢を感じさせないが、五十歳を越える熟練の外科医である。

「どこもかしこも大騒ぎをしているときに、東京周辺にだけ緊急事態宣言を出すことにどれほど意味があるのか、心もとない限りですがね」

 普段が物静かな千歳の言葉は、それだけで重く響く。

 まったくですよ、と相槌を打つ龍田の声が続いた。

 ――いつまで持つだろうか。

 敷島の不安感は、医療体制と同時に、自分の体力の側にもある。

 敷島はもともと体が丈夫な方ではない。

 学生時代も漢方薬同好会に入ったくらいで運動はせず、部屋でのんびり本を読んでいることを好むタイプである。自分がひときわの読書家だとは思っていないが子供のころから本が好きで、高校生のころは医学部が不合格であれば、どこかの文学部を目指そうかと考えていたくらいである。

 研修医のころはよく発熱したし、今も負荷がかかると不眠や下痢になる。今のところ大きな不調が出ていないことは救いだが、これがいつまでも維持できるとは思っていない。

 持ちこたえている間は、がんばろう。

 そう決めて、敷島は病棟に向かう。

 早朝、敷島がまっさきに向かうのは、一般病棟である。癌の患者や心不全の患者など、受け持ちをひととおり回ったあとに感染症病棟に足を運ぶ。順序を逆にするようなことは絶対にしない。

 感染症病棟の前まで来れば、衝立の向こうに広がるレッドゾーンに、防護服姿の看護師たちが働いているのが見える。そのままそばのステーションに入って、iPadを使用して、八人いる受け持ちのコロナ患者を一通り確認する。

 信濃山病院では多くの患者が軽症から中等症と言われる領域であり、自分でiPadで会話をするくらいのことは可能である。七人と会話をし、悪化はないことを確認したが、しかし八人目がiPadに応じない。複数回コールしても反応がない。軽く眉を寄せたところで、ちょうど感染症病棟から出てきた夜勤の看護師が顔を見せた。

「敷島先生、根津さんですよね?」

 コールに応じない患者の名を的確に告げてくるということは、何かあったということだ。

 根津九蔵は、二日前、カップラーメンを食べていた敷島に、三笠が電話で入院準備を頼んできた六十五歳の男性だ。白い髭を豊かに蓄えた人物で、高熱と軽い咳のほか、両側肺に広がる広範な肺炎像があった。

「あまり良くないのか?」

「昨日までは悪くはなかったんですが、昨夜から少しずつSpO₂が下がっています。今は2Lで94%」

 きわどいバイタルである。

 六十五歳という年齢も微妙であるし、なにより基礎疾患に、弁膜症による慢性心不全がある。

 不安げな目を向ける看護師に、敷島は淡々と応じた。

「採血をしよう、早めに頼む」

「はい。CTはどうしますか?」

 的確な質問が返って来た。

 状況を把握するのにCTはもっとも確実な検査のひとつである。しかしまもなく朝の外来が始まれば、CT室の前には予約の一般患者が列を作ることになる。

 もちろん割り込ませることは可能だが、そうするには一般患者をいったん別の区域に移動させ、短時間でも放射線科前の廊下を封鎖する必要がある。廊下だけではない。コロナ患者が移動するルートに人が入ってこない様に、エレベーター周囲や隣接する階段にも人を配置しなければならない。

 コロナと一般診療とを両立することの難しさがここにある。

 敷島はゆっくりと首を左右にした。

「まず採血で構わない。SpO₂に注意して、さらに悪化するようなら連絡してくれ」

 落ち着いた敷島の返答に安心を覚えたように、看護師はすぐに採血の準備にとりかかった。敷島は病棟ステーションを出て、朝のカンファレンスに向かった。  

 

 朝八時、薄暗いカンファレンスルームに内科と外科、総勢八人の医師が集まる。

 三笠や敷島たち六人の内科医と、千歳と龍田の二人の外科医が、信濃山病院のコロナ診療を担う総力である。

 朝の内科、外科合同のカンファレンスは、本来、入院患者のプレゼンテーションや治療困難症例の相談などが目的だが、今はもっぱらコロナ診療の動向が議題である。広々とした大会議室を借りて、皆が遠い距離を保ちながらの議論になる。

 全員が集まったところで、進行の三笠が口を開いた。

「まずは報告ですが、昨日の発熱外来受診者は四十五名で、陽性者は十二名でした」

 いきなりの静かな爆弾に、一同がざわめいた。

 受診者数も、陽性者数も、さらに増加を続けている。

 つい一、二か月前までは、受診患者数は一桁で推移し、しかもコロナ陽性が検出される確率は数%に過ぎなかった。一日で十人前後が受診し、陽性者がゼロであることも多く、まれにひとりが陽性となって大騒ぎをするといった状態であった。

 しかし今では、来院者は数倍に跳ね上がり、陽性率も20%を超えている。もちろんこれは、感染症指定病院としての特殊性もあるのだが、いずれにしても受診者が急速に増えている中、陽性率もこれほど高い状態が続けば、医療はたちまち限界に達する。

 いや、すでに限界に達しているということが、三笠の続く発言で確認された。

「昨日の患者の十二名中七名はホテル療養となりましたが、残り五名が基礎疾患のある高齢者や、肺炎の目立つ患者であり入院適応となりました」

 再び会議室がざわめく。

 二十床あった病棟は、昨日の朝の段階で満床になっていた。より正確には、個室に複数人を入院させていたから、満床を越えていた。そこに新たに五人の患者を入院させるなど、不可能であったはずだ。

「入院適応はいいですが、ベッドはどこから絞りだしたんですか?」

 当然の問いを出したのは、肝臓内科の日進だ。

 敷島より六つ上の四十八歳で、大きな肥満体に、いつも斜に構えたような笑みを浮かべている。コロナ患者の受け入れに当初、強く反対していた医師のひとりである。

〝呼吸器内科医もいないのに、新型肺炎の治療などできるわけがないでしょう〟

 そう繰り返していた日進だが、年齢や立場から、三笠、敷島とともに最初期からコロナ診療に従事することになり、今となっては、コロナ診療の経験がもっとも長い医師のひとりとなっている。

 その日進がにやにやと笑いながら語を継いだ。

「まさか病棟に二段ベッドを持ち込むわけにもいかないですよねぇ」

「隔離病棟前にある資材庫を急遽あけて、高齢の二名を入院させました」

 日進のひねくれた発言に、三笠はわずかも表情を変えずに応じる。

「残り三名のうち一番重症だった一名は筑摩野中央医療センターに依頼。残り二名は、保健所が圏域を越えて患者を受け入れられる病院を手配し、そのうち一名が入院できています」

 そこで言葉は途切れた。

 思わず医師たちは顔を見合わせる。

 つまり肺炎があるのに入院できなかった患者がいるということだ。今も自宅で待機しているということであろうか。

 こんな事態を、十八年の医師経験の中で敷島は一度も聞いたことがない。

 三笠の抑揚のない声が続く。

「本日保健所から濃厚接触者八名の検査依頼がすでに入っています。うち二名に味覚障害などの症状があるとのことです。発熱外来担当者は、今日も大変だと思いますが、引き続き対応をお願いします」

「対応は構いませんが……」

 挙手して発言したのは、外科の千歳である。感情を消した怜悧な視線を三笠に向けて続けた。

「おそらく今日も多くの陽性者が出るでしょう。昨日の時点で入院できない患者が出ているのに、新たに入院適応の患者が出てきた場合はどうしますか? 患者が来ればいくらでも診ますが、治療できる環境が用意されていないというのは不安があります」

 冷静な指摘である。

 そばに座る龍田も大きくうなずいている。 努力をすることに異存はない。けれどもできないことをやれと言われれば、穏やかではいられない。

 現に、ベッドはないのである。

「その都度私に連絡を」

 三笠の声は静かであった。

 静かであったが、独特の緊張感をはらんでいた。

 ベッドを隠し持っているわけではない、と電話で言っていたのは三笠自身である。

「現在、院長や病棟師長とともに、感染症病棟のさらなる拡充を急いでいます。近日中に最大三十六床を確保するつもりです」

 三十六……、と誰かがつぶやく声が漏れた。

 信濃山病院が確保している感染症病床は、本来わずか六床なのである。拡充に拡充をかさねて二十床まで増やしたベッドを、内科と外科が総力戦でかろうじて支えている。三十六という数値は、常識的に考えられない。

「いつまで当院だけでやるつもりですか?」

 千歳の声に、いつになく冷ややかな響きがくわわった。

 敷島は思わず、千歳の横顔に目を向ける。

 表情には微塵も変化はない。遠目には、穏やかな微笑さえ浮かべているように見えるが、しかし刃物のような視線が、三笠を見つめている。

 千歳は、外科医でありながら、三笠、日進、敷島の三人の内科医だけでスタートした初期のコロナ診療チームに、自ら名乗りを上げてくわわった。柔軟で熟練の医師だが、使命感に燃えた熱血漢というタイプではない。淡々と、かつ的確に、まるで術中のメスさばきのように物事を進めていく人物である。

 医療に対しては常に積極的だが、信濃山病院がほとんど孤立状態でコロナ診療を支えている現状には、微妙な違和感を示している。

 三笠はわずかに沈黙し、やがて口を開いた。

 

夏川草介(なつかわ・そうすけ)
1978年大阪府生まれ。信州大学医学部卒。長野県にて地域医療に従事。2009年『神様のカルテ』で第十回小学館文庫小説賞を受賞しデビュー。同書は10年本屋大賞第2位となり、映画化された。他の著書に『本を守ろうとする猫の話』(米国、英国をふくめ20カ国以上での翻訳出版が決定)、『神様のカルテ2』(映画化 2011年本屋大賞第8位)、『神様のカルテ3』、『神様のカルテ0』『新章 神様のカルテ』『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』『始まりの木』がある。

 


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◎編集者コラム◎ 『警部ヴィスティング 鍵穴』著/ヨルン・リーエル・ホルスト 訳/中谷友紀子
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