小原 晩「はだかのせなかにほっぺたつけて」第15話

小原 晩「はだかのせなかにほっぺたつけて」第15話
ある人の、ある恋の、ある時のこと。

 第15話 
かぜ


 空気のわるさに子どもの頃は気づかなかった。親というのは、なにかと理由をつけて子どもの部屋にズカズカ入ってきては「空気がわるい、空気がわるい」とぷつぷつ言って、せっかく暖まってきた部屋の窓をがらがらと開け放ち、風をとおして、たちまちさむい部屋にしてしまう生きものであって、大人ってさむいのが好きなのかな、へんなの、あなたがたの言ういい空気ってつめたい空気のことなの? とこたつから顔をのぞかせ、憎たらしく思っていたけれど、わたしもついぞ大人になったということなのか、いつのまに空気のわるさをわかるようになって、わりとすぐに部屋の窓を開けるようになったなあ、というようなことを寝込んでるベッドのなかでぼんやり思い出している午後三時。おでこに貼った冷えピタはどんどんと端のほうから硬くなって、そりかえってくる。そりかえった部分が乾いた駄菓子のような感触になると替え時だけれど、ああすでに部屋の在庫は切れてしまって、歩いて七分のコンビニエンスストアへ行かなければ手に入らない。こうして風邪をひいたとき、ポカリスエットはあってもなくてもいいけれど、冷えピタだけはなくては困る。しかし、立ったらふらふら、頭はがんがん、横になっていることでなんとか自分を保っているようなこの状況でコンビニエンスストアに行くことはできないできないできないわ、と早々に諦め気分で、他人に頼ろうとiPhoneをひらく。

 こういうとき駆けつけてくれそうな雰囲気のあるひとに連絡をしてみると、そのひとはすぐさま了解してくれて、冷えピタの他には何が欲しいのか、薬はあるのか、ポカリスエット派なのかアクエリアス派なのか、グリーンダカラ派なのか、みかんゼリーは好きか、俺のおすすめシュークリームを食べるかどうか、温かいうどんなどをつくってやろうか、などといろいろの質問やら提案をしてくれるのであった。温かいうどんをつくってやろうか、のあたりで、このひとは風邪をひいた人間の部屋に入ることを厭わず、なんなら看病しようとしていることに気づいて、ていねいにお断りする。こちとらとっても風邪をひいているのだから、髪は鳥の巣、肌は砂浜、パジャマは毛玉、ブラジャーをつける気力など残っているわけもないし、昨日の朝からお風呂にも入れていないのでにおうし、そもそも部屋は散らかり放題なのだから、よく知りもしないおとこのひとを迎え入れることはできない。うどんをつくってくれたところで、わざわざありがとうね、と笑顔のひとつをつくる余裕もないのだ。そんな余裕もないのなら、他人に頼るな、そもそもよく知りもしないおとこのひとを頼るなという意見もあると思うけれど、わたしには冷えピタが必要なのだもの、と簡単にひらきなおる。

 ひとり暮らしになってからというもの、風邪をひくたび、こういうとき駆けつけてくれそうな雰囲気のあるひと、に連絡をして冷えピタを届けてもらっている。こういうとき駆けつけてくれそうな雰囲気のあるひと、がだあれもいなかったことは、今までにない。そして、つぎの風邪をひいたとき、こういうとき駆けつけてくれそうな雰囲気のあるひと、が同じひとだったことは一度もない。わたしはそういう自分のことをさびしい人間だとはっきり思う。恥ずかしい、甘えている、だらしがないと思う。でもそれ以外にどうしろというのか、無理をして死ねというのか、そこまでは誰も言っていないと思うけれど、自然と癖づいてしまったものはひどく手ごわい。

 インターフォンが鳴ったので、画面をみると、こういうとき駆けつけてくれそうな雰囲気のあるひとが、レジ袋を持って、こちらにちいさく手を振っている。オートロックを解除するボタンをおして、がさがさの声を出す。「よ」とそのひとは言って、七階まで上がってきてくれる。しばらくしてiPhoneが光る。「ドアノブにかけたよ。いつでもうどんつくるから」まだうどんをつくろうとしているな、とすこしおののき、ドアの覗き穴から誰もいないことを確認してから、やさしくドアを開けて、ドアノブにかけてあるレジ袋を回収する。

 冷えピタと薄めのポカリスエット、みかんゼリーと、コンビニのクレープ、キャラメル味のピノ、鍋焼きうどん、ビタミンのいっぱい入ってそうな飲みもの。お願いしたものも、お願いしていないものも入っている。普段はみかんゼリーなんて食べないけれど、風邪をひいたときには食べたくなることをうっすら思い出す。熱を出して学校を早退すると、仕事を早上がりして家に帰ってきてくれたお母さんが必ず買ってくるのは、みかんゼリーだったような気がする。気がする程度のぼんやりとした記憶。

 みかんゼリーの蓋を外して、すこしでも傾けるとこぼれてくるゼリーの汁にくちびるをつけて吸う。とてもあまい、知らぬまにちょっとこぼしてしまったようで、べとべとになった指先を水道水で洗い流してから、プラスチックの小さなスプーンで掬い、口に運ぶと、舌の上、すごくつめたい。つめたいが喉をとおる。ああ、この部屋は空気がわるい、とわたしの中の誰かが言うので、ひさしぶりに窓を開ける。風がとおる。ベッドから毛布をひっぱり、からだに巻きつけ、食べすすめる。さっきのひとに返事を送る。レジ袋から、新しい冷えピタを取り、おでこに貼ると少しやわらぐ。ゆっくりと窓を閉める。空になったゼリーの容器をゴミ箱に捨てる。こんこんと眠ろう、と胸に決めて、ベッドにもぐり、目をつぶる。

 


小原 晩(おばら・ばん)
1996年、東京生まれ。2022年、自費出版にて『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』を刊行。独立系書店を中心に話題を呼び、青山ブックセンター本店では、2022年文芸年間ランキング1位を獲得。24年に大幅な加筆を経て実業之日本社から商業出版された。その他著書に『これが生活なのかしらん』(大和書房)がある。

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