こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』スピンオフ小説「私の好きな音」
こざわたまこさんの新刊『教室のゴルディロックスゾーン』発売を記念して、小説丸だけで読めるスピンオフ小説を掲載!
なんと全部で6つの物語が楽しめます! お話はそれぞれで完結しているので、『教室のゴルディロックスゾーン』を未読の方でも安心してご覧いただけますが、本編読後の方がより楽しめるかと思います。
1つめは、吹奏楽部の女の子のお話です。
私の好きな音(ある日の永田未緒)
トップキャップを緩めてピストンを引き上げ、専用のオイルを数滴垂らす。戻したピストンを上から何度か押してみると、さっきまでのきちきちとした感触が消えて、指の動きに滑らかさが加わったのがわかった。残りのピストンにもまったく同じ作業を施して、それが終わったら、今度は抜き差し管のお手入れだ。最初の頃はおっかなびっくりだったこの作業も、今では随分体に馴染んできた。
慣れてしまえばなんてことのない作業だけど、面倒だな、とか、明日でいいかと思う日がまったくないってわけじゃない。でもそんな時、私の耳に蘇るのは、入部したばかりの頃に繰り返し聞かされた、先輩の言葉だ。どうせ借り物だし、なんて思っちゃダメだよ。楽器のお手入れだけはサボらず、こまめにね。こういう決まった作業があると、大事な演奏の時とか、本番前に気分が落ち着くから。それを教えてくれたのは、私を吹奏楽部に誘ってくれた、二つ年上の先輩だった。
***
「あの子って、優花の知り合い?」
「え」
ちょっとした世間話のつもりだったのに、優花は予想に反して、驚いたような顔でこちらを振り返った。
「えーと、ほら。さっき階段のとこで話してた」
小野先輩戻ってきてなくない、という後輩達の会話に教室の時計を見上げると、集合時間まであと十分を切っていた。胸にユーフォを抱えたまま、慌てて席を立つ。教室の外に探しに行くと、廊下に出てすぐ優花を見つけた。早くしないと先生に怒られるよ。一応声をかけてみたけど、優花は何やら真剣な様子で話し込んでいる。暗がりのせいで顔はよく見えなかったけど、相手は多分、別のクラスの子だ。
「あー……」
あれ、と思う。優花がこんな風に何かを言いよどむのは珍しかった。
「知り合い、っていうか。どっちかって言うと、友達の友達。……かなぁ?」
そう言って、困ったように頬を掻く。ふーん。優花の友達というと、この前演奏会にも来てくれた幼馴染みの子だろうか。たしか、琴ちゃんって言ったっけ。ねえそれって、と話を続けようとした瞬間、ガラガラ、と音がして、沖先生が教室に入ってきた。
「じゃあ、今から十分後に合わせます。わからないところがあったら、この時間に確認するように」
でははじめ、と先生が手を叩いた。にわかに教室が騒がしくなる。そうこうしているうちに私は後輩から、優花はともやんから声をかけられて、さっきまでの会話はお流れになった。未緒、ちょっとごめんね。そう言って立ち上がった優花の横顔が心なしかほっとしているように見えたのは、私の気のせいだろうか。
『優花ってわりと謎の人だよね~。未緒もそう思わん?』
いつだったか、ともやんがそんな風に言っていたのを思い出す。
ともやんには小学生の頃から推している歌い手グループがいて、私も時々おすすめの曲を教えてもらっている。最近、グループの一人――ともやん曰く、事務所からいちばん推されている子――がソロプロジェクトを発足し、人気のボカロPとタッグを組んでアニメの主題歌を担当することが発表された。そのことがきっかけで、ともやんは優花と話すようになったらしい。
『なんか、年の離れたお姉ちゃん? がいるんだって。月ランはその人に教えてもらったとか言ってたかな』
優花に姉がいるというのはその時初めて知ったけど、優花のオタク趣味がその人の影響ということなら納得がいく。月ラン、というのは、この春で三期目に突入した深夜アニメだ。原作が長期連載作品ということもあって、根強い人気があるらしい。優花にはあんまりそういうイメージがなかったから、ともやんからその話を聞いた時はちょっとびっくりした。
『そういう話、こっちではしないようにしてるみたい。棲み分け、っていうの? クラスにはオタク系の友達もいるっぽいし』
だとしたら私がさっき見かけた子も、そのつながりなのかもしれないな。そんなことを思った。優花が自分から話さないってことは、その子のことにはあまり触れられたくないんだろうな、とも。
部活の仲間って、ちょっと不思議だ。下手したら家族よりも長い時間を一緒に過ごしている分、普段そこまで関わりのないような子でも、今何を考えているかとか、今日は話しかけられたくないんだろうなとか、そんなことにだけは目敏くなる。一方で、じゃあ部活以外の時間はと聞かれたら、お互い知らないことの方が多いのかもしれない。今目の前にいる相手が普段どんな人間関係を築いて、どんな風に学校生活を送っているのか。教室ではどういう立ち位置で、家ではどんな風に過ごすのか。
そういえば優花とも、部活中ならよく喋るけど、二人きりでじっくり話をしたのはさっきが初めてかもしれない。
『教室のゴルディロックスゾーン』
こざわたまこ
こざわたまこ
1986年福島県生まれ。専修大学文学部卒。2012年「僕の災い」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。同作を収録した『負け逃げ』でデビュー。その他の著書に『仕事は2番』『君には、言えない』(文庫化にあたり『君に言えなかったこと』から改題)がある。