こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』スピンオフ小説「私の好きな音」
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「……未緒先輩?」
その声に、はっとして顔を上げる。杉田が、心配そうな顔でこちらを見下ろしていた。
「あ、ごめん。ぼうっとしちゃってた。どうした?」
「あの。これ」
杉田が自分のバッグからごそごそと何かを取り出した。
「え、何。……これ、杉田が作ったの? すごっ」
「あ、いや、まあ。ねーちゃんが製菓学校通ってるんで。俺はその手伝いっていうか……」
杉田から差し出されたそれは、透明なビニール袋に入ったクッキーの詰め合わせだった。なになに、とさっそく首を突っ込んできたともやんを、無言でぽかりと叩いた。暴力反対、とか何とか、ぶーぶー言ってるともやんは放っておいて、ありがとね、と杉田に向き直る。杉田は俯いたまま、先週のお礼です、とつぶやいた。
「お礼って……」
思い当たる出来事は、ひとつだけあった。私がそれに気づいたのは、合奏後のミーティングの最中。杉田は私や優花と同じ、ユーフォニアムパートの後輩の男の子だ。元々無口なのか、普段からあまりべらべら喋るような子じゃない。でも、どうも様子がおかしい。何を聞いても上の空というか、気もそぞろな感じがした。それで声をかけたら、長い沈黙の末に、いつも俺だけ同じところでつっかかっちゃうんです、と悩みを打ち明けてくれた。それで放課後一緒に残って、杉田が苦手と思っている箇所を気が済むまで練習したのだ。クッキーはその時のお礼、ということらしい。
別にそんな、と言いかけた私を制するように、あの俺、と杉田がまくし立てる。
「俺らの代、俺以外は小学校の時から始めてる子達ばっかりで。俺、みんなの足引っ張ってばっかだし、全然うまくなんないし、一人だけ男子だし。吹奏楽、向いてないのかなーって。だから、その。声かけてもらえて、嬉しかったです。ありがとうございました」
もうちょっとだけ、がんばってみます。そこまで一息に言うと、杉田はぴょこんと頭を下げて、自分の席に戻っていった。
手作りだというクッキーは、所々ひび割れていて、既製品と比べるとあまりに不格好だった。でも、かわいい。袋の口のところが、小豆色のリボンで止められている。そんなはずないのに、クッキーを握った手のひらが、じんわりと熱を放っているような気がした。
私が杉田に声をかけたのは、杉田のためってわけじゃない。私は優花や、先輩みたいにはなれない。ならせめて、私にしかできないことをしたい。そう思った。ていうか、してやるんだ、って。当てつけみたいな気持ちもあったかもしれない。先生から注意を受けるたびにうなだれて、少しずつ萎縮していく杉田を見ていたら、思い出してしまった。吹奏楽を始めた頃の、自分の気持ち。できない人の気持ちは、できない人にしかわからない、ような気がする。だとしたら、それを掬い取ったり、その気持ちに寄り添ったりするのができない人の、ううん、できなかった人のできること、なんじゃないかな。
先生に見つからないよう、クッキーをこっそり楽器ケースの中に隠して、さりげなく隣の様子をうかがう。優花は、真剣な顔で楽譜を広げていた。足でリズムを取りながら、自分の運指をチェックしている。何度も、何度も。こういう時の優花は、なかなか声をかけても気づかない。練習は量もだけど、いちばんは質。短い時間にどれだけ集中してやるか、それが大事だからね。そう言っていたのは、先輩だっけ。優花の後ろ姿を見ていたら、ふと、さっきのことを思い出した。
『……あれ。入んないの』
廊下からここに戻る直前、優花が急に教室の前で立ち止まった。
『優花?』
そう声をかけると、優花はこちらを振り返った。そして、私の顔をじっと見つめる。何よお、と笑うと、優花は思いのほか強い口調で、続けなよ、と口にした。
『え』
『私は中学までって、親と約束してるから。だからさ』
だから未緒は、続けなよ。それだけ言って、くるりと背を向けた。教室の蛍光灯の光を浴びて、優花の横顔がほんの一瞬、ぱっと明るくなった。その時、あ、って思った。優花がいつも、夕方五時を過ぎると必ず親に連絡を取っていること。演奏会後の打ち上げは、ほとんど欠席していること。優花の家は親が厳しい、と誰かに聞いたことがあった。優花自身も、父親がうるさくってさ、と言っていた。夏期講習も、親が勝手に申し込んじゃったって。それって、優花が本当にやりたかったことなんだろうか。優花の親は、優花が音楽を続けることをよく思っていないのかもしれない。もし優花が、吹奏楽を続けたくても続けられないんだとしたら?
「はい、じゃあそろそろ始めましょう」
先生がパイプ椅子から立ち上がり、みんなに向かって呼びかけた。次の曲は、来月他校との合同演奏会で披露する。それぞれのパートに用意された、息の揃ったスタンドプレイが見せ場だ。
「では、みなさん準備して」
先生の合図に合わせて楽器を構えると、それを支える左手を通じて、ユーフォの重みがずしんと体に伝わってくる。先生が指揮棒を掲げた瞬間、教室が心地のよい緊張感に包まれた。
『私は好きだけどな。未緒の音』
優花の言葉を思い出す。――私も好きなんですけどね、私の音。自分の胸の中でだけ、そっとつぶやく。でもその「好き」は、自分よりうまい他人の演奏とか、自分だけ入りのタイミングをミスった合奏会とか、全然うまくならない居残り練習とか、そういうことの積み重ねで、いとも簡単に揺らいでしまう。それでもその「好き」を取り戻したくて、取り戻すために、私達は今日も楽器を吹くのかもしれない。
マウスピースに唇をつけて、短く息を吸い込んだ。斜め前に座った優花の、しゃんと伸びた背中が、視界の端に映り込む。次の瞬間、楽器の中の空気が震えて、私達のすべてを包み込むようなユーフォニアムの音が、ぷぁーっと辺りに響き渡った。
『教室のゴルディロックスゾーン』
こざわたまこ
こざわたまこ
1986年福島県生まれ。専修大学文学部卒。2012年「僕の災い」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。同作を収録した『負け逃げ』でデビュー。その他の著書に『仕事は2番』『君には、言えない』(文庫化にあたり『君に言えなかったこと』から改題)がある。