こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』スピンオフ小説「空を舞うフィッシュサンド」

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「……なんだ。猫かよ」

 声の正体がわかって、ほっと胸をなで下ろした。首輪はしていないから、野良猫だろうか。まるっとした背中に、立派なキジトラ模様を背負っている。かなりのデブ猫だ。病気か怪我か、頭頂部の辺りに豆粒くらいの小さなハゲができていた。

「お前、腹減ってんの?」

「ぐえっ」

 聞いてみても、ひゃっくりとも嘔吐えずきとも言えないような微妙な声が返ってくるだけで、答えはない。撫でてやろうとしたのに、心底嫌そうに顔を背けられた。甘えるでもなければ、食べ物をねだるでもない。そのわりにさっさとここを離れるでもなく、ただただ、物欲しそうな顔でこっちを見ている。

「悪いけど、お前にあげられるようなもん、なんももってないよ」

 言葉が通じているのかいないのか、そいつはしばらくの間辺りをうろうろしていた。しかし、俺が何もくれないとわかると、ちっ、みたいな顔をしてのろのろときびすを返した。年のせいで足腰が弱っているのか、それとも単純に太り過ぎなのか、どうも足元がおぼつかない。

「……かわいくねえなぁ」

 もっと愛想良くすりゃいいのに、とつぶやきかけて、いやいやヒトのこと言えねーよ、と自分で自分に突っ込みを入れる。自分が言われて嫌なことを、他人に言ってりゃ世話ぁない。しかもこんな、年寄りの猫に。

「おい、お前――」

 牛乳くらいならあげてもいいか、と思い直して、よいしょと腰をあげる。

「えっ」

 ストローが服の裾に引っかかり、牛乳パックが音もなく倒れた。パックの口から、じわじわと白い液体が広がる。

 おろし立てのスニーカー惜しさに、咄嗟とっさに足を庇おうとしたのがいけなかった。無理な体勢がたたって足首を捻り、右足全体に激痛が走る。勢いで、思い切り拳を握りしめた。ぐにゅ、とパンが潰れる嫌な感触に、ひえっと細い悲鳴があがる。慌てて手を離したものの、時すでに遅し、だ。潰れたフィッシュサンドがきれいな弧を描きながら、具材もろとも華麗に宙を舞った。

 うそだろ。まだ半分も食べてないのに。……廃棄だし、あきらめるか? いやいや、さすがにもったいないだろ。とっ散らかった思考が頭の中を駆け巡り、腕が無意識に宙を掻く。わずかながらの健闘も虚むなしく、ぐしゃぐしゃになったフィッシュサンドは思い切り地面に叩きつけられた。これはもう、フィッシュサンド自ら投身自殺を図った、と見ていいと思う。気がつけば、パンから転がり落ちた白身フライが――いや、「かつて白身フライだったもの」が、砂にまみれてコンクリートに横たわっていた。

 鮮魚コーナーの売れ残りが惣菜コーナーに回され、加工された白身フライがベーカリーコーナーに回され、結局誰に選ばれることもなく、廃棄ボックスに捨てられたフィッシュサンド。使い回しに次ぐ使い回しの末、最後に行き着いたのがここじゃあ、死んだ魚も浮かばれまい。

 はっとして、自分の胸の辺りに視線を動かす。タルタルソースが、いつのまにかTシャツをべったりと汚していた。あれほど必死になって避けたはずの牛乳も、結局スニーカーにかかってしまっている。



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『教室のゴルディロックスゾーン』
こざわたまこ


こざわたまこ
1986年福島県生まれ。専修大学文学部卒。2012年「僕の災い」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。同作を収録した『負け逃げ』でデビュー。その他の著書に『仕事は2番』『君には、言えない』(文庫化にあたり『君に言えなかったこと』から改題)がある。

採れたて本!【海外ミステリ#08】
乗代雄介〈風はどこから〉第5回