武塙麻衣子「一角通り商店街のこと」9. 獏の夢書店

武塙麻衣子「一角通り商店街のこと」9


 久利生さんははたきをカウンターの上に戻し、エプロンのポケットからカッターを取りだして、届いたばかりらしい段ボール箱を開け始めた。雄士は本棚を回り込み、入口近くの棚を見上げた。講義で名前を聞いたことがある本がたくさん並んでいる。吊るされているパネルの言葉はたった一文字「心」。

「えー、すごいな」

 思わず呟いてスマホを取り出す。

「久利生さん、学部の友達にここの本のこと知らせたいんですけど本棚の写真撮ってもいいですか」

 声をかけると、久利生さんはちらりとこちらを見てひらひらと手を振った。たぶん、いいということだ。出版社も作者の名前も関係なく、一冊のタイトルを見て頭に浮かんだ内容が隣に並んでいる本のタイトルに自然につながっていくのが面白くて、棚から目を離せずについどんどん本棚に沿って横歩きしながら並べられた本を見てしまう。気が付くと、雄士は「心」から「運動」と「老後」を越えてなぜか「ヨーロッパの食事」まで移動していた。本棚を撮った写真をLINEすると、ユンくんからすぐに返事が来た。「すごい! 読みたい本がいっぱいある!」とのこと。今度一緒に来てみよう。カウンターを覗くと、久利生さんが新しく届いた本の背表紙を一冊ずつ慎重に確認していた。

「ここは、本の並べ方が面白いですね」

 雄士が声をかけると、久利生さんは頷いた。

「あれはあたしの考えたシナプス方式よ」

「え?」

 久利生さんの考案したシナプス方式で並べられた本というのは、まず一冊のタイトルを見る。そういえばこれって、他の本でも取り扱われていた内容じゃなかったかな。あの本てなんだったっけ。あ! 隣にちょうどその本もある。へえ、この著者って共著でも本を書いていたんだ、このもう一人は他にどんな本を書いているんだろう。あ! 隣にその人の本があるじゃないか。

「と、延々何かがつながっていろんなことを思い出したり興味を持ったりする流れになってるってわけ」

 久利生さんがぽんと手を打った。

「なかなか面白いでしょう」

「はい、とっても」

 またゆっくり友達と来ます、と頭を下げて店を出ようとすると、久利生さんがすっと右手を上げた。よく削られた鉛筆が握られている。

「まあ、もうちょっといいじゃない。一勝負していきなさいよ」

 そう言って久利生さんはカウンター上に紙と鉛筆を置いた。

「はい、ここにバクを描いてみて」

 ものすごく曖昧な記憶を振り返ってみる。たぶんバクの体は白と黒だ。それで全体的にむっくりした感じ。えーと、耳はあるだろう。わからないけどこんな丸い感じの。

「何それ」

「えっと、これは耳です」

 久利生さんがにんまりと笑う。

「ふんふん。で、その耳は何色?」

 手が止まってしまう。耳の色? あれ、そもそも体が白黒と言っても、上半身だけが黒だったかな。だめだ、全然わからない。というか鼻はどうした。記憶なんて本当に頼りないものだ。都合の悪いことを忘れることもできるけれど、楽しかった記憶もこのままじゃいつかみんななくしてしまいかねない。雄士はほとんど諦め気味で雑にバクを描き上げ、久利生さんのほうに紙をむけて見せた。

「ちょっと、あんたが描いたの、これじゃあバクじゃなくてパンダじゃないのよ」

 こらえきれなくなった久利生さんが大声で笑いながら、用意しておいた動物図鑑を開いてこちらに見せてくれた。いくらなんでもそんな大袈裟な、と思いながら図鑑を覗くと、確かにどんなにひいき目に見ても、雄士が描いたのはパンダだ。しかもかなりひどいパンダ。

「敗因はなんだろう」

 呆気にとられて思わず呟くと、久利生さんが噴き出した。

「ウケる! 全部に決まってるじゃない」

 でも調べて描いたりしなかったからあんたのシナプスは無事ね。目に涙を浮かべながら自信ありげにそう言って久利生さんは満足そうに頷き、雄士も渋々ながら笑ってしまった。本格的に寒くなってしまう前に、本物のバクを動物園に見に行ってみよう。そうしたら、もしかすると雨が降る時だけ反応する右ひじの傷のことも運良く何か思い出せたりするかもしれない。

「じゃあ」

「はい、毎度。またお待ちしてますよ」

 見送られて獏の夢書店を出ると、雨はすっかりやんで空には晴れ間が覗いていた。ふと獏の夢書店の扉を見上げると、そこには一頭の一角獣が飾られていた。

「一角獣?」

 イッカクベーカリーでは、一角というのはイルカに角が生えたような哺乳類のイッカクのことだった。一角通り商店街における一角には、もしかして自由な解釈があるということなのだろうか。そんなことってあるかな? ぼんやり見上げていると、木製であるはずの一角獣のたてがみが風を受けてふわりと柔らかくなびいた気がした。この商店街にいると、夢でも見たかな、という不思議なことがさらっと起こる。

 

 雄士は、フレッシュカジイに向かって歩き出した。アーケードの向こうはもうすっかり晴れていて、明るい商店街のテーマソングが耳に入り、雄士は思った。そういえば俺は一角通りの一角を今までなんだと思っていたんだろう。なんとなくすぐに頭に浮かぶのは将棋の駒だ。一度思いついたら急に気になり始めてしまった。獏の夢書店の棚には、この謎を解く鍵もあったりするんだろうか。今度調べてみよう。それかシゲさんあたりに訊いてみるのも良いかもしれない。一角通り商店街とは、一体いかにしてその名前になったのか。

 しかし、今はとにかく腹が空いてきた。まずはフレッシュカジイできのこを買う。中島によれば、まいたけ、しめじとえのきはマストだそうだ。安いから。好きならばエリンギやひらたけを入れてもいい。それからどれでもよいので小松菜やチンゲンサイなど緑の葉っぱも忘れずに。厚揚げも忘れずに買え。中島に教えられた食材を思い出しながら歩いているとざあっと風が吹き込んできて、雄士は思わず首をすくめた。アーケードの中まで吹きぬけ始めた風が、これまでのものと違ってかなり冷たさが増していることに気がつく。地元の富山に比べればまだちっとも寒くはないけれど、それでも初めて暮らすこの土地にまもなく冬がやって来るというのは、雄士にとって少なからず胸躍ることなのだった。

 

(次回は7月31日に公開予定です)

 


武塙麻衣子(たけはな・まいこ)
1980年神奈川県生まれ。『諸般の事情』『驟雨とビール』などのZINEを発表後、2024年『酒場の君』(書肆侃侃房)で商業出版デビュー。
Xアカウント@MaikoTakehana


 

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