武塙麻衣子「一角通り商店街のこと」11. 魚辰鮮魚店
刺身の盛り合わせが載った皿とゲンゲの天ぷらを克哉さんが運んでくると、シゲさんは待ってました、とばかりにゲンゲに塩を振った。ぱくりと頰張り、目を丸くする。
「へえ、うまいなあ。これ」
頷きながら、雄士も割り箸を手に取った。久しぶりのゲンゲだ。いつの間にか缶ビールを二本空けたシゲさんは、日本酒に移行していて、立山の純米吟醸をすいすい飲んでいる。
「それ、美味しいお酒ですよね。富山はお水もお米もきっととても良いんでしょうね」
商店街に面したガラス張りの調理場の方から、克哉さんの妻の笑子さんがタオルで手を拭きながら出てきた。
「笑子さんも、お魚おろすんですか」
雄士が訊くと、笑子さんは「修業中の身です」と朗らかに笑った。克哉さんと結婚する前は、東京の有名な広告代理店の営業職でそれはもうばりばり働いていたのだという。そんな人が商店街の鮮魚店に突然来て客商売をやっていけるのか、と、まわりはかなり心配したらしい(その頃の笑子さんは、もっぱら食べる専門で、魚に触ったことは人生で一度もなかったそう)。
「だけど、この人の魚に関する舌はなんなら俺よりも肥えている」
そう克哉さんが宣言し、隣で笑子さんが「まかせてください」と言って胸を叩いたという噓か本当かわからない話を聞いた時は、思わず笑った。雄士は、フリースにエプロン姿で長靴を穿き、ぐいっと髪をまとめたどこからどう見ても魚辰の店員である快活な笑子さんしか知らない。しかし、彼女が初めて店に立った時は、近所の店の人間がなんだかんだと理由をつくってかわるがわる覗きに来るほど可憐だったらしい。というのは、以前、魚辰の向かいの片岡精肉店の二代目から聞いた話である。
「富山のお正月はどうでした?」
オーブントースターのチン!という音がして、間もなく笑子さんが温めたタラのフライを紙皿に取って渡してくれた。
「なんかいつも通りでしたね」
そう答えて、雄士はあることを思いついた。
「あの、にしんてありますか」
克哉さんと笑子さんが顔を見合わせる。
にしんの甘露煮を作ってみようなんて、なぜ思いついてしまったのだろう。シゲさんにごちそうしてもらった日から一週間ほど経って「二代目が身欠きにしんを仕入れてきたよ」という連絡を克哉さんからもらい、雄士はもう一度魚辰鮮魚店へやって来た。
「えら蓋とか尾の硬い部分は除いてあるやつだから」
魚を調理したことがないので、いくぶん緊張気味の雄士の顔を見て、義克さんがおかしそうに言う。
「大丈夫だよ。失敗のしようがないさ」
にしんてありますかと質問しておきながら生の魚などやっぱりとても扱えそうにない、と尻込みしかけた先週、甘露煮なら干物になっている身欠きにしんを使ったらいいですよ、と教えてくれたのは笑子さんだった。笑子さんの地元は北海道なので、やはり実家で大晦日によく食べていたらしい。
「烏龍茶かほうじ茶をひたひたにフライパンに入れて、落とし蓋をして弱火でにしんを煮てください。そうすると臭みが抜けるから」
笑子さんが励ますように続ける。
「鍋にこの分量のみりんと酒を入れて煮切ったら、醬油とお水も足して、にしんを入れて、また落とし蓋。煮汁が大さじ一~二杯くらいになるまで三十分くらい煮つめれば完成です。はい、これメモね」
手書きのメモを、にしん二枚が入った袋と一緒に渡された。干物だからなのか、大した重みもなく、煮ただけでこれが本当にふっくらするのか? と首をかしげたくなる。
「それにしても年が明けてからにしん蕎麦が食べたくなるなんて、お正月に実家で食べてこなかったの?」
「祖父が亡くなってから、年越し蕎麦がにしん蕎麦じゃなくなったんです。特に好きだったわけでもないんですけど、なんかこの前、急に思い出してじゃあ作ってみようかなって」
説明しながら、ふいに気が付いた。祖父以外の誰もにしん蕎麦をそこまで好きではなかったのに、毎年大晦日に食べ続けた理由。きっとみんな祖父の喜ぶ顔が見たかったのだ。
「適当に店に食べに行くっていうんじゃなくて自分で作ってみようってところが雄ちゃんらしくていいじゃねえか」
奥の調理台で作業をしていた義克さんにそう言われ、雄士はあたまを掻いた。実はどこか店に食べに行ってみようかとも思ったのだが、にしん蕎麦は意外と値段が高く、しかも美味しかったという記憶でもないので、だったらまずは自分で作ってみた方がいいかもしれないと思っただけなのだが、それは言わずにおこう。
「頑張ってみます。ありがとうございました」
店を出ようとすると、笑子さんに呼び止められた。
「これ、良かったら雄士くんもやっていってください」
笑子さんが指さした先には、カプセルトイのミニマシンが置かれている。
「あれ、これどうしたんですか? おもちゃ?」
「そう。子供のお客さん用に置いてみたの。今だったら特別に私が書いたおみくじも入れてありますから」
はいこれ、と渡されたマシン用のコインをしゃがんで投入口に入れ、小さなハンドルをひねるとがらがらっとそれらしい音を立ててカプセルがひとつ落ちてきた。開けてみると中には、個包装のココアのマシュマロがひとつ。
「それ、最近ハマってるんです。食べてみてね」
笑子さんが嬉しそうに言う。それから四つに折られた紙が一枚。広げてみると、そこには赤いサインペンで大きく「大吉」と書かれていた。小さな字でラッキーフィッシュは、春告魚とも書いてある。
「はるつげざかな?」
きょとんとする雄士の背中を、ちょうど配達から戻ってきた克哉さんがぽんと叩いた。
「雄ちゃん、それ、はるつげうお。にしんのことだよ」
「良かったなあ。きっとうまいにしん蕎麦が食えるぞ」
調理台を拭きながら、義克さんが言う。
「ありがとうございます」
お礼を言いながら、魚辰鮮魚店がどうしていつも明るい場所に感じるのかがわかった気がした。温かい人たちばかりが働いているからだ。商店街を歩きながら、ポケットからココアのマシュマロを取りだして口に放り込んだ。初めて食べたはずなのに懐かしい甘さがふわりと口の中に広がる。あれ? はたと足が止まった。うまいにしんの甘露煮は魚辰さんで教えてもらったからたぶん作れるとして、うまい蕎麦つゆの味付けについては一体誰に教わったらいいんだろう。帰宅したら実家に電話してみよう、と雄士は思った。もらってきた煮物と昆布締めのお礼もそういえばまだ伝えていない。にしん蕎麦を作ると言ったら、きっとみんなびっくりするだろう。
(次回は9月30日に公開予定です)
1980年神奈川県生まれ。『諸般の事情』『驟雨とビール』などのZINEを発表後、2024年『酒場の君』(書肆侃侃房)で商業出版デビュー。
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