乗代雄介〈風はどこから〉第9回

乗代雄介〈風はどこから〉第9回


「干拓地を見下ろして歩こう」


 岡山駅から両備バスに乗って南を目指すと、30分ほどで児島湖締切堤防にさしかかる。右も左も水面が広がる堤防を1.6キロメートルほど行けば児島半島に上陸だ。朝日に光っている東が児島湾、西は児島湖である。

 もともとは瀬戸内海に浮かぶ島だった吉備児島(古事記で大八島の次に生まれる島)が、川の堆積作用と安土桃山時代からの段階的な大規模干拓によって、本土と陸続きになることで形成されたのが児島湾だ。それと同時に、吉備児島は児島半島となった。干拓の目的は新田開発だが、水不足や塩害が深刻化したので、湾の西側の一部を堤防で締めきることで児島湖として淡水化し、今に至る。

 バスが通ったのはその堤防だから、振り返って目に映る対岸の景色はほとんど干拓によってできたものである。一帯を沖新田というそうだ。バスは児島湾沿いを東に進み、その時点で唯一の乗客であった私は、宮浦というバス停で下りた。宮浦というのは町の名前でもあるらしい。外に出ると肌で感じるが、晴れの国とも呼ばれる岡山らしい秋晴れである。

宮浦の町並み
宮浦の町並み

 10月中旬、私は〈おかやまライター・イン・レジデンス〉という作家の創作活動を支援する制度で、十日ほど岡山市に滞在した。12月と2月にも同じ期間、滞在する。岡山市主催の坪田譲治文学賞を『旅する練習』でいただいた縁が続き、招かれたのである。

 取材の融通を利かせてもらうこともあるが、この日は一人で取材をする日だった。早速、一人の気楽さで、高台に見えるお寺でも目指してみるかと家々の間の細い道を入って行く。長い塀の合間に年季の入った門とか勝手口の扉とかが急に現れておもしろいが、この町並みは、戦国時代に横行した塩飽しわく水軍への対策の名残ということだ。

 高台にある松林寺は、西暦739年の創建、歴代藩主の信仰も厚かったという。立派な石垣や塀の間を上っていって参拝を終えると、白黒の猫が一匹寄ってきた。フレンドリーなのでしゃがんで対応すると後ろ足で立ち、体に上りたくてしょうがないご様子。お寺の方が来たので話をうかがうと、町では「まる」、お寺では「たるみちゃん」と呼ばれている猫だそう。「いつもそんな風じゃないんだけど」と言われて悪い気はしない。日当たりの良いベンチに移動したら、たるみちゃんもとことこついてきた。膝に乗ってきたのを撫でているうちに、体をべったり預けて寝てしまった。動くわけにもいかず、キンクスの「Sitting In The Midday Sun」という日向ぼっこの歌をリピートしながら、10分ぐらいじっとしていた。いつまでもそうしていられないので、目を閉じたままのたるみちゃんを地面に下ろし、まだ撫でてほしそうに転がり回るのを背に出発する。一日の始まりに猫の毛だらけになったが、あたたかい気分である。

たるみちゃんと松林寺
たるみちゃんと松林寺

 塀の小路をしばらく東へ進み、貝殻山の登山口へ出た。コシダの茂るハイキングコースに入って早々、「米兵の墓標」と書かれた手書きの案内板を見つけたので行ってみると、草むらにコンクリート製の十字架が一つ立っている。1945年6月29日の岡山空襲は、未明ということもあって1737名の犠牲者を出したが、B29の一機がこのあたりに墜落し、搭乗していた11名が亡くなったそうだ。ここ宮浦の人々も対岸で燃えさかる岡山市街を目にしたと思われるが、その中でも敵兵を手厚く葬ったのである。戦後、米軍が住民への感謝とともに遺骨を国に持ち帰ったという。

 手書きの案内板も、再建したという十字架が今なお草に隠れないのも、墓標のことを伝えた新聞記事が自由に持ち帰れるよう傍らにあるのも、その記事にある「何もなかったら、B29が墜落したという事実は忘れ去られてしまう」という住民の思いの継続を示している。

 この日、イスラム武装組織ハマスによるイスラエルへの攻撃をきっかけとした、ガザ地区への空爆のニュースが入ってきたところだった。簡単に否応なくスマートフォンで見ることになったショッキングな映像と、目の前の十字架。古今東西、回り回ればどう考えても無関係ではない戦争に対して自分をどこに置き何をするのか、思い出したようにするささやかな行動を除けば、当事者になるまで保留し続けているのだから情けない。と言いつつ、そんなこと考えるだけでも自分はマシだと感じているが、それさえも時間稼ぎなのである。挙げ句の果てには、十字架を前に「Imagine」をわざわざ流してみたりするのだった。そんな自分に後ろめたさを抱きつつ、そんな気にさせる曲を作って世に問うたジョン・レノンの立派さをようやく思い知る。何度でも思い知るべきなのだろう。

墓標の前に座って新聞記事を読みふけった
墓標の前に座って新聞記事を読みふけった

 児島半島の中央は低山が並んで、いわゆる丘陵地形になっている。私がひとまず目指そうとしている貝殻山の東には三頂山や八丈岩山、西には金甲山がある。東の方を少しうろついてから金甲山に行き、そこから下山しようという計画を立てて登っていく。大きな岩の群れが中腹に覗いているのを確認し、天柱岩という案内が出ている方へ分岐を進んでみる。

 急峻で細い登山道は整備されて、歩きにくさはない。垂らされたロープを頼りに岩座に上がると、青空の下、岡山市街まで一望できる。児島湾の向こう、沖新田の特に百間川の東側地域には、まだ青みの強い田が広がっている。あのあたりは昔とそれほど変わらぬ景色なのだろう。

 しばらく気付かなかったが、しみじみ見下ろす私の後ろに天柱岩はあった。その名の通り柱のような岩の上に、後から一つ載せたような形で大岩がバランスを保っていておもしろい。とはいえ、どうしてそんなことになるのか何もわからないのが口惜しく、これからは岩石図鑑を持ち歩こうと決心する。これまでナツメ社の図鑑を愛用してきたが、鳥、野草、樹木ときて岩石だ。がんばって勉強しよう。

 その後、くぐり岩というのをくぐってから貝殻山の山頂を目指す。ほどなく尾根上の県道(長谷小串線)に、続いて広い駐車場に出る。車は一台もない。そこから少し上れば貝殻山公園だ。広場があって、瀬戸内海に視界の通る気持ちの良い場所で、岡山駅で買った「溶岩石で焼き上げた岡山あっぱれ鶏めし」を食べたり芝生にしばらく寝転んだりして、かなり長居してしまった。山に駅弁を持ち込むのは、コンパクトで少々傾いてもこぼれないように出来ているので便利がよいからだ。観光気分も満たされて一石二鳥である。

 車道に戻って、時間もないし西へと歩く。ちょっと外れて、草木の少ない崖道を登ったところにある天目山の山頂でさらにのんびりした。どうも朝一番で猫と戯れたせいか、そういう気分になっているらしい。なんか椅子みたいな岩(勉強すればもう少しまともなことを書ける)に座り、たっぷり時間をかけてノートに風景の文章スケッチをしながら、数日後に控えたワークショップのことを思った。

 これも〈おかやまライター・イン・レジデンス〉内の催しである。私が数年前から続けている風景の文章スケッチを、30人ほどの方々に実践してもらおうというのだ。初めてのことでやや不安だが、風景描写は何を書くかよりもどう見るかという問題なので、たぶん大丈夫だろうと思いながら、瀬戸内海にぼんやり浮かぶ島々を眺めていた。結果を言うと、ワークショップは私にとっても実りある時間となった。同じメンバーで行う第2回、第3回も楽しみだ。

 さて、車っ気のない曲がりくねった長谷小串線を、また西へ西へとだらだら下っていく。剝き出しの岩肌と水気の少ない淡い緑が次々に現れるおかげで目には楽しい。看板の地図によれば遊歩道もあるらしいのだが、あまり整備されていないようで、下る道は藪に塞がれていた。

 いったん下って県道(金甲山線)に入ってから登っていく。ずっと舗装路を歩くのも退屈なので、無理やりそれらしき道に入ってみると、赤テープの巻かれた木がある。かろうじて道なりに辿るようになっているので行ってみるが、林業の伐採目印である可能性もあるので注意が必要だ。すぐに道なき道という感じになり、赤テープも外れてしまった残骸を地面に探すような有様だが、道路がすぐそこに見えているので迷う心配はない。

 どうにか東光寺山の山頂標識まで辿り着いたが、クモの巣もすごいし道路に戻って金甲山まで歩いた。山頂付近にはテレビやFMの送信アンテナが何本も立ち、展望所つきのレストハウスがある。あるったってレストハウスは2001年に閉業したそうだが、今も屋上から景色を楽しむことは可能だ。東西をパノラマで見渡せて気持ちがいい。ただ、景色だけでは人は呼べないということだろうか。

レストハウス跡からの瀬戸内海
レストハウス跡からの瀬戸内海

 一休みしているうちに、イヤホンからジョーン・ジェット「Bad Reputation」が流れてきた。アヴリル・ラヴィーンのカバーが急に『ONE PIECE』の映画の主題歌になった十年ぐらい前を思い出してしまうのはとにかく、自分の悪い評判なんか気にしないという力強い歌だ。べつに金甲山に悪い評判があるわけではないけれど、レストハウスや遊歩道が廃れようとこの景色には関係がないよな、とこじつけをしてしまいながら西を向けば児島湖の端が見える。そばの平地に区画のはっきりした圃場が見えて、おそらくあれも干拓地だろう。上から見るばかりではなんだから、最後にあそこを歩いて帰ることにしようと思いつく。もう16時過ぎでだいぶ日は傾いている。金甲山の西をくねくね曲がりながら南側に出られる林道から下山した。

 そのあたりは岡山市ではなく玉野市である。南西から児島湖に注ぐ鴨川を渡ると岡山市に戻り、住所は南区北七区となる。七区というのは干拓された順番からつけられたもので八区はない。1963年、この地の造成をもって児島湾干拓事業は完成を見たからだ。もう薄暗いが、背骨のように1本通った民家の並ぶ長い道を、おそらく麦を中心にした広い圃場が挟んでいるのはおもしろい。小学校そばの記念碑にも書いてあった誇らしい実りの一方で、干拓事業によって漁場が失われることもあった。もうない景色のはかなさと今ある景色の強さを、我々はどう考えればいいのだろうか。

写真/著者本人

文学創造都市おかやま

*今回の原稿は、おかやまライター・イン・レジデンス(令和5年度)滞在中に執筆されました。

乗代雄介(のりしろ・ゆうすけ)
1986年北海道生まれ。2015年「十七八より」で第58回群像新人文学賞を受賞しデビュー。18年『本物の読書家』で第40回野間文芸新人賞を受賞。21年『旅する練習』で第34回三島由紀夫賞を受賞。ほか著書に『最高の任務』『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』『パパイヤ・ママイヤ』『それは誠』などがある。

「風はどこから」連載一覧

源流の人 第38回 ◇ 藤原辰史(京都大学人文科学研究所准教授)
◎編集者コラム◎ 『超短編! 大どんでん返し Special』小学館文庫編集部/編