小原 晩「はだかのせなかにほっぺたつけて」第5話

小原晩「はだかのせなかにほっぺたつけて」第5話
ある人の、ある恋の、ある時のこと。

 第5話 
ふたりのかたち


 付き合って八年になります。

 私が酒に酔って帰ると、彼は説教をします。長い説教です。本棚の本の前の少し余ったスペースにたまったほこりのことが気になってくるほどの長い説教です。彼の集中力はほんものですよ。聞いているだけで、いつもへとへとになりますが、彼はお見通しで、へとへとなのはこっちだよ、とさらに言われることもあるので、私はできるかぎり、すっきりとした顔をして、彼をじっと見つめ、うなずき、さも誠実そうな声の色と大きさで謝ることにしています。酒をのむのはもうやめました。もうぜんぜん、のみたくなんかなくなったんです。彼も、君がのまないならのみたいとは思わない、と言ってのまないようになりました。

 ほかにやめたものといえば、泣き声。とくに寝室の泣き声は、いけないんです。プレッシャーになるっていうんです。だから、私はハタチになっても誰に怒られても声を出してわあわあ泣いていたけれど、やめました。声はころして泣きました。もう、ふるえたり、せずに泣けます。彼にはけっして見えないように、いつも背中を向けて寝ました。彼はやさしくうしろから、あたたかい手をわたしのからだに巻きつけました。私は安心して泣きました。毎晩かならず泣きました。

 お母さんになるのが夢でした。きっと私、これはいまでも思いますけど、良いお母さんになれると思うんです。自分の子供に、真っすぐの愛情を注ぐことができるって、予感なんてもんじゃないんです、確信があるんです。彼との子供がいいんです。きっとかわいい。けれど、彼の家族は、あんまり仲良くないというか、ほんとうにいろんな、込み入った問題が重なっていて、彼はそれでも一生懸命に生きてきたというところがあるから、子供はもちろん、結婚でさえ、おばけみたいにこわがって、まるで不幸のしるしみたいに、家庭のことをおもっています。ただそれだけで、私が、どれだけ。それはわかっていても、やっぱりわからないようなんです。彼と別れたこともあります。一度だけ、この部屋を出て、新しい部屋を借りて。私は毎日のように時間を持て余して、何度もピクルスをつくりました。きゅうりのピクルス、にんじんのピクルス、セロリのピクルス。ピクルスをつくるのは簡単で、まずは耐熱ガラスでできた瓶をたっぷりのお湯で煮沸して、好きな野菜をざくざく切って、かるく茹でて、お酢とお砂糖、白ワインとローリエを合わせたものに、漬けるだけ。自分ひとりの冷蔵庫のなかできらきらと立つピクルスたちの麗しさを思い出すと、今でもうれしいこころもちになります。

 けれど、私、星空をみるとだめなんです。煙草を吸うためにベランダに出て(彼は嫌がっていたから、それまで煙草はやめていたんですけどね)煙を吐きながら、ぼうっと星空なんかみてしまうと、彼はいま何をしているのか、そういうことばかり考えてしまうんです。だから私、煙草なんか吸うのやめて、彼のもとへ帰りました。

 彼のどんなところが好きなのか、と聞かれてみると、やさしいところ、だとか、清潔感のあるところ、だとか、悪口が上手なところ、だとか、なんだかふわふわしたことしか答えられなくて、正直、自分でも心許ないです。けれどたとえば、寒い日には湯船をはって待っていてくれたりだとか、歩きにくい靴を履いているときはゆっくり歩いてくれたりだとか、彼のそういうところならいくらでも思い出せます。でも、もしそういうことができる人が他にもいるなら他の人でもいいのかと聞かれたら、だめなんです。それは即答するほどのつよくて迷いのない気持ちです。どうして、と言われてもうまく答えることのできない思いは私の胸で光りとなって、私の毎日を照らします。それが愛ではなくて、なんなの。

 季節はとっくに流れたんです。

 前述した通り、彼は怒ると長いし、しつこいし、理屈っぽいところがあるし、疑り深いし、Tシャツの干し方にも細かいけれど、そのすべては、彼の不器用さに由来するということが、私にはもうわかっているんです。彼は自分が不器用だということに気づいていないほど不器用なんです。高倉健より不器用なんです。いろんなことを難なくこなしているふうの人より、よっぽど信頼できる人なんです。

 なんのかのとつづいてきた八年と、これからに、私は胸を張りたい気持ちでいます。相手に合わせたり、合わせてもらったりしながら、今、ひとりとひとりは、ふたりのかたちを見つけつつあります。

 


小原 晩(おばら・ばん)
1996年、東京生まれ。2022年、自費出版にて『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』を刊行。独立系書店を中心に話題を呼び、青山ブックセンター本店では、2022年文芸年間ランキング1位を獲得した。その他著書に、初の商業出版作品として23年9月に『これが生活なのかしらん』を大和書房から刊行。

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