源流の人 第48回 ◇ 朝倉さや(シンガーソングライター)

源流の人 第48回 ◇ 朝倉さや(シンガーソングライター)

日本人の心を揺さぶる民謡の歌姫はジャンルを超え国境を越え感動を届ける

 聴く者の心をじかに揺さぶる歌声。身体の芯へエネルギーを与える歌声。シンガーソングライター・朝倉さやの歌声には、そんな力の存在を感じる。ふるさと・山形で過ごした小中学生の頃、「民謡日本一」に2度輝き、シンガーソングライターを目指して18歳で上京。故郷への切ない想いを旋律に乗せた楽曲「東京」で2013年、デビューを果たし、それから11年あまり。民謡と新しい音楽とを融合させていく独自のスタイルを貫いてきた。歌うことを人生の軸として歩む彼女の、これまでと、これから。
取材・文=加賀直樹 撮影=松田麻樹

 9月下旬のある土曜の昼下がり。東京近郊のショッピングモール内のライブ会場には、200人を超す聴衆が集まっていた。舞台に笑顔で上がった朝倉は、大きく息を吸い込み、アカペラで歌い始めた。

 華奢な姿からはおよそ想像もできない、のびやかで、まっすぐで、力強い歌声。彼女自身が初めて作曲したという「東京」という曲。上京したてで都会の喧騒にもまれながら、葛藤を抱えつつも夢を諦めない等身大の姿が歌われている。そこには山形弁と、民謡の歌唱法を採り入れながら、唯一無二の歌声を響かせてきた朝倉自身の姿がそのまま重なる。

 大きなモール内を歩いていた客らを、思わず立ち止まらせるような、透き通る強い歌声。それは今年8月、TBSラジオ「安住紳一郎の日曜天国」にゲスト出演した朝倉の歌を聴いた、パーソナリティーの安住アナウンサーが「サラ・ブライトマンやエンヤのようになればいい」と漏らしたほどだ。朝倉はこのほど自身初となるベストアルバム「Honten 〜Best Dazu〜」(ユニバーサルミュージック)を発表し、全国ツアーを展開している。朝倉はその遠くまで通るような明瞭な声で、山形弁も交えながら笑顔で話し始めた。

「デビューして11年、ほんてん(本当に)、ありがとさまです。2011年の春、18歳で上京した時には、CDデビューや事務所が決まったわけでもなかったのに、『東京に出たら、何かチャンスがあるのんねべが?』という志だけで上京してしまいましたから(笑)」

朝倉さやさん

 地元の高校を卒業後、東京・御茶ノ水にある老舗ホテルで社会人生活をスタートさせた。その傍ら、オーディションや音楽教室などを片っぱしから探し回る生活をしばらく送った。小中学生の時に、民謡日本一に2度輝いた実績を朝倉は持つが、その実績が、ポップスの世界では必ずしもプラスには働かなかったという。

「オーディションを受けた時に、『まずはその「こぶし」を取らないとダメだね』と言われた事があったんです。でも、民謡が大好きな自分にとって、この『こぶし』をなくしてまで、歌って生きていくのはあり得なかった」

 居場所を探すために果てしない旅をするような毎日を送る中、音楽プロデューサーの solaya 氏に出会う。2012年当時、彼は都内で音楽教室を運営しており、そこに朝倉は通い、作詞作曲を学ぶことになった。過去のインタビューで彼は朝倉の歌について、「うそのない、真心が伝わる」と評している。

 自分で作曲することを指導された朝倉はさっそくアコースティックギターを買い求め、日記を読み返しながら歌詞をつくり、そこに旋律をつけていった。solaya 氏の前で歌を口ずさみ、彼がコードを探りあてていく。そこに朝倉がさらに歌を乗せ、複雑なコードをかけ合わせていく。そうして二人は、じつに1年がかりで曲を創作していった。どのレーベルに持ち込んでも「民謡は売れない」と一蹴され続けるうちに、いっそ自分がレーベルを立ち上げればいいと、solaya 氏は自身のインディーズレーベルを立ち上げることにした。2013年4月、「東京」で朝倉はデビューを果たした。そしてあっという間に「USEN HIT」や「Amazon デジタル ミュージック」歌謡曲ベストセラーランキングの1位に輝くなど、次々とチャートインした。

朝倉さやさん

「solaya さんは、わたしを丸ごと、『こぶし』も山形弁も丸ごと認めてくれて、デビューに導いてくださいました。日を重ねるごとに音楽の親だという思いが深まってきました」

 朝倉は言う。

「solaya さんに出会ってよかった。一緒につくってきた音楽は、もう永久不滅。ベストアルバムをつくりながら改めて思いました。音楽と一緒に、ずっと一緒に生きていくって」

 しかしその師弟関係は10年ほどで終わりを告げる。solaya 氏は2022年9月、がんのために41歳でこの世を去ったのだ。朝倉は、彼がかけてくれたこの言葉を大切に心に刻んでいる。

「今の気持ちを、そのまま歌うこと。それがあなたにしかつくれない曲になるから」

「歌うこと」を人生の軸に

 山形市内に生まれ育った朝倉は、曽祖母と母親の影響で、小学2年生から本格的に民謡を習い始めた。朝倉は振り返る。

「実は、民謡を習っているのは学校で私一人だけでした。周りは『民謡って何?』みたいな感じ(笑)。師匠のもとに月に1、2度、習いに行き、毎日練習していました」

朝倉さやさん

 家族も皆、民謡が好きだったので、親戚が集まった時には「どれ、歌ってみろ」。曽祖母の家に行き、好きな歌を一緒に聴いたり、歌ったりして過ごした。朝倉は民謡の魅力を笑顔で語る。

「その土地で生まれた素晴らしい伝統文化や、土地の景色、方言。良いところが1曲の中にいっぱい詰まっているんです。節回し、発声、民謡独特の歌い方も好き。『素晴らしいよ!』って伝えられたらいいなと思っているんです」

 たとえば、最近、若い世代や訪日外国人にも人気の「盆踊り」などの日本の祭り。皆が盛り上がるその中心には、必ず民謡がある。

「山形の花笠まつりだったら、花笠音頭。じつは身近にあるのに、みんなそれが民謡だと意識していないだけなんです。花笠まつりの日だけは、みんな民謡で盛り上がる。すごくわくわくします。太鼓の音、花笠音頭、みんなの掛け声。まつりの日はすごく大好き」

 物心がついた時から「歌手になりたい」と思っていた。小学生・中学生の頃には「歌手になる」と心が決まっていた。高校時代、民謡以外にいろんな音楽を聴くうち、「自分で曲をつくって歌う人がいるんだ」と感銘を受けた。スピッツ、DREAMS COME TRUE、yui。わたしも自分で感じたことや伝えたいことを音楽や言葉にして歌で表現したい。そうして朝倉は2011年4月、上京。18歳だった。その夢を叶えたデビュー曲「東京」がヒットチャートをかけめぐるのは、上京から丸2年後、2013年4月のことだった。

「東京」が繋ぐ、都会と故郷

「東京」という歌には、都会で暮らす葛藤や、故郷への想いがあふれていて、多くの地方出身者の心を打った。朝倉のもとには、同じような「上京組」のあらゆる世代のリスナーから共感の声が寄せられた。

「昔、上京した時と同じ気持ちです」
「山形出身じゃないけど、同じ思いです」
「上京した息子・娘がこんな思いをしていたのかと思うと泣けてきます」

 朝倉は話す。

「ひとりの歌が、それぞれの人々の『東京』になっていて。自分で曲をつくりたいという気持ちにまっすぐに向き合って生きてきて『いがったな(良かったな)』って思いになりました」

朝倉さやさん

 この曲が発売された時「電車内で『東京』が流れるイヤホンを隣の人の耳にあて、『聴いてくれ!』と叫びたいほど、デビューが嬉しかった」という朝倉。じつはその前後から、全国放送や地元・山形のテレビ・ラジオ番組への出演が続いていた。山形弁で日本の歌を歌い繋ぎ、動画アップを続けた活動が話題を呼んでいた。

 たとえば、スピッツの「ロビンソン」の歌詞。「風に乗る」を「風さ乗るべ」。

 太田裕美の「木綿のハンカチーフ」は、「染まらないで帰って」が「染まんねで帰てけろ」に。

 たおやかで温かみのある山形弁。それを歌に乗せる朝倉の存在が受けた。ただ、ともすると、こうした活動はテレビなどでは「イロモノ扱い」され、一過性の流行で終わることも多い。そんなおそれもあったのではないかと尋ねると、朝倉は首を大きく横に振った。

「歌えていることに喜びを感じていて、イロモノ扱いされたらイヤだなとか、そんなマイナスな気持ちはなく、その時期をめちゃくちゃ楽しんでいました。『山形弁、こんなに楽しんでもらえるんだ!』って」

 上京後に働いていたホテルの同僚には、地方から同じく集まった人がたくさんいた。2人1部屋の社員寮で一緒に住んでいた同期社員は、青森の出身だったという。

「わたしよりも、めちゃくちゃなまっていました(笑)。『我々はこの東京さ来たけど、東京の中心でなまって生きていぐぞ!』っていう感じで生活が始まったんです」

 そんなふうに、山形弁で堂々と歌い上げる朝倉のもとには、「方言がいままで恥ずかしかったけど、もう恥ずかしくない」という声がたくさん届くようになった。なまって歌うことが、誰かの背中を押すこともある。それを朝倉は知った。

「わたしはなまりが好きで歌っています。それを好きだと言ってくれて、嬉しいです」

 こうした朝倉の取り組みが広い世代に受け入れられ、その後も各種ランキングで1位になった。「山形弁×名曲」をコンセプトにしたアルバム「方言革命」では、「iTunes」で1位、「Amazon」配信で年間ランキング4位を記録。そして、アルバム「River Boat Song -Future Trax-」では、民謡と最先端の音楽を融合させ、2015年、「日本レコード大賞」企画賞を獲得。インディーズレーベルからの受賞は史上初だった。そして2020年、朝倉はユニバーサルミュージックよりメジャーデビューを果たした。

歌声は世界へ

 朝倉の公式 YouTube チャンネルは現在、登録者数12万人を超え、海外からの反響も目立ってきている。海外配信では「サウルスティラノ」「わだすのジブリ」「Life Song」「東京キネマ倶楽部公演」がスペイン、タイ、台湾、トルコでチャート1位に。単曲配信ではオーストラリアで1位、フランス、インドネシアでも TOP5位圏内に。コメント欄には、各国語で絶賛の声が飛び交っている。

「すてきな声だ」
「いい曲だ」
「あなたのような声は初めて聴いた」
「あなたの声に感動した」

 歌が届き、世界と繋がる実感を得るようになった。朝倉は語る。

「歌っていていいんだ。これからも歌い続けるぞ、しっかり、って気持ちになります。おばあちゃんになっても歌い続ける、一生歌い続けていくのが夢。一所懸命生きて、本当のことを歌うことで、誰かのパワーになれるんだったらば、本望だなと思う。性別とか国とか関係なく、響くような歌。それは、しっかり心がこもったものでないときっと届かないし、真剣に向き合ったものじゃないと届かないと思っているので」

朝倉さやさん

 思えば、安住アナが「エンヤ」を例に挙げ朝倉の歌声を絶賛していたが、かつてエンヤが日本でも流行した時、日本人の何人がその歌詞に着目していただろうか。むしろ、歌詞の内容など気にせず、その美しい声に魅了され聴き入っていたような気がする。アイルランド北部生まれで、アイルランドの伝統的なケルト音楽と現代的ポップスの要素を融合させた彼女は、独自の「ケルト的音楽」を創り出して世界のディーヴァとなった。それと同様に朝倉の声は、言葉の壁を越え、心地よい「音楽」として世界に受け入れられ始めているのかもしれない。

「もしそうだとしたら嬉しいです。コンサート会場だったらその会場みんなに届けようと思うし、レコーディングしている時は、たとえば地元の民謡だったら、知られていないけど、素晴らしい部分がたくさんあるので、そういうのが届くといいなと思いながら歌っています」

 たとえば彼女が歌う、ゲームソフト「てんすいのサクナヒメ」の主題歌「ヤナト田植唄・巫―かみなぎ―」は、稲の成長や田植えの辛苦を歌い上げる。自然の宿命、民たちの挑戦。こうしたテーマはきっと世界でも普遍の感動を呼ぶ。朝倉の歌声は「天に届け」と祈るかのような神々しさを感じる。言葉の壁を越えて通じる観念といって良い。

「今、ツアーをしながら感じるのは、日常にも素敵なことって隠れている。そこで出会う人々と言葉を交わしたり同じ時を過ごしたりすることで、すべてがきっと歌に繋がる。日々を大事にしていきたいと思います」

 故郷・山形の花笠音頭なら、「花の山形 紅葉の天童 雪を眺むる尾花沢」。その短い歌詞の中に、素晴らしい景色があることをイメージして歌う。それによって深く世界を広げられると信じ、朝倉は歌い続ける。

津々浦々の歌を歌い繋ぐ

 景色をイメージしながら、歌で世界を広げていく、その姿勢は、山形民謡だけにとどまらない。

「子どものときから夏川りみさん、あたり孝介さんが好きで、影響をすごく受けている感じがします」

 石垣島出身の夏川、奄美大島出身の中。とりわけ奄美地方の島唄は、裏声でくるくる回す「ぐいん」と呼ばれる独特のビブラート歌唱法が特徴だ。同じく奄美出身のはじめちとせも、「ぐいん」を全国に知らしめた一人だろう。朝倉は語る。

「私たち北の方の民謡は、裏声を使ってはいけない曲ばかりなんです。私は北で生まれたけれども、奄美の歌声を聴くことによって、中和されて新しい『自分』が生まれている感じもします」

朝倉さやさん

 かつてそこにあり、時代とともに消えていった民謡を復刻することにも朝倉は注力している。香川県じまでは1960年代まで、「たんす唄」という民謡があった。嫁ぐ時に実家からたんすを一緒に持っていく文化がある同地区では、たんすを担ぎながら夜、行列になって嫁ぎ先に行く時にこの歌が歌われていた。その風習自体がなくなり、「たんす唄」も消滅した。2020年になって、地元のテレビ番組スタッフから「歌ってくれませんか?」という依頼を受け、県教育委員会が唯一残していた音源をもとに、朝倉が復活させて歌った経験がある。朝倉は言う。

「文化がなくなると民謡もなくなってしまうのか、とショックを受けました。でも、逆に言えば、民謡を歌い続けることで、文化を後世に伝えていける、素敵な活動になる。『たんす唄』を通じてそんなことを思いました」

 2017年には日本茶の産地・静岡市葵区とう地区でも、難しすぎて歌われなくなった民謡「茶摘み唄」の復活プロジェクトに参加した。楽譜が残っていないので、地区の高齢者から口頭伝承で復活させたという。なくなってしまうのは寂しい。歌い続けていきたい。そう改めて思う経験が、朝倉にはたくさんあるという。

「人々の暮らしと労働は全部、繋がっている。民謡を歌うと魂が震え、ソウルを感じます。思いから生まれた曲だから、パワーがあるのかもしれない。いつもそう思います。純粋にいいものをやっていれば結果がついてくる。自分にうそのない、本当のことを歌うことを柱につくっていきます」

「東京」でデビューを果たして始まった朝倉さやの「第1章」。「民謡と新しい音楽の融合」に挑戦して「日本レコード大賞企画賞」に輝いた「第2章」。そして現在。つねに背中を押してくれた恩師が天国に旅立ち、新たな「第3章」が始まった。北へ、南へ、昔へ、今へ。それぞれの持ち味を感じ取り、歌いながら旅をする。その視界は無限に広がっている。

朝倉さやさん愛用グッズ
ハンディサイズのセルフマッサージグッズ、その名も「かたお」。同じ体勢が続く新幹線の移動中などで、色んな部位に当ててコリをほぐしている。軽くて持ち運びしやすいサイズ感が気に入っている

朝倉さや(あさくら・さや)
1992年山形県生まれ。小中学校時代に民謡日本一に2度輝き、18歳で上京。2012年、音楽プロデューサー solaya 氏と出会い、動画サイト上で名曲を民謡調や山形弁にアレンジして歌唱。投稿して間もなく再生回数も上がり話題に。2015年、日本レコード大賞企画賞、CDショップ東北ブロック賞を受賞。21年、アルバム「古今唄集~Future Trax BEST~」にてCDショップ大賞・歌謡曲賞を受賞。22年発売のアルバム「Life Song」は iTunes Store J-Pop トップアルバムでトルコや台湾で1位を獲得するなど世界の注目を集める。24年には初のベストアルバムとなる「Honten ~Best Dazu~」をリリースした。
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朝倉さやさん

萩原ゆか「よう、サボロー」第70回
◎編集者コラム◎ 『ミニシアターの六人』小野寺史宜