小原 晩「はだかのせなかにほっぺたつけて」第17話

小原 晩「はだかのせなかにほっぺたつけて」第17話
ある人の、ある恋の、ある時のこと。

 第17話 
午後三時


 春子は窓辺に置かれた寝椅子にぐったりと横たわり外をながめていた。

 ひとりむすめの良子が手入れしている庭の草木は雨にぬれて光っている。

 この一軒家は春子が買ったもので、いまはひとりで暮らしている。八十を超えたいまも、自分のごはんは自分でつくり、お風呂にもひとりで入る。歳をとったと感じるのは、鏡にうつる髪の白さや、顔じゅうにあるシーツのようなシワ、膝やら腰やらのにぶい痛みだけでなく、それよりもっとたしかなのは、自分でも気づかないうちに目を閉じてうとうと眠ってしまうことがだんだんと増えていくことだった。

「こんなに大事な話をしているのに眠るなんて!」とむすめの良子に怒られることもあるけれど、もう死にかけだから仕方ないのよ、とこたえると、良子や孫はいつも絶妙な顔をして、それからなんの足しにもならない励ましをくれる。その一連にはへんな魅力があって、春子はそれをひそかにたのしんでいる。

 壁にかかったもう鳩の出てこない鳩時計をみると十四時四十分をさしている。十五時に孫の雪子が来るはずだ。春子は寝椅子から体を起こし、ローテーブルの上からたばこを一本とった。慣れた手つきで火をつけて、ゆっくりとたばこをふかす。雨音が耳に入ってくる。なにもする気になれない午後だ。

 雪子は高校生一年生だか二年生だか三年生だかで、いつもなにかにひどく熱心だ。このまえはアイドルに、そのまえは数学に、さらにそのまえは部活の人間関係に。あきらめることをしらないひとはまぶしくて、うっとうしい。けれどかけがえのない孫である。絶え間なくしあわせでいてほしいと春子は願っている。

 ドアベルが鳴る。雪子だろうか。

 ドアをあけると、見知らぬ男の子が立っていた。雪子の制服の生地とよく似た学生服を着ている。

「どなた?」春子が聞くと、男の子は緊張したおももちで、

「スミ ヨシトと申します。雪子ちゃんに、ここへ十五時ごろきてほしいと言われたものでして」とスミヨシトは言った。

 知らぬまに雨は上がっていたようだった。

「あら、そう。雪子のおともだち?」さらに聞くと、

「お付き合いさせていただいております」とスミヨシトははっきり答えた。

 スミヨシトは眉毛ともみあげのしっかりとした、姿勢のいい男の子だった。

「おばあちゃーん、スミくーん!」近所中に聞こえるような大きな声で、こちらにおおきく手をふって走ってきたのは雪子だった。雪子はすぐに家の前について、ぜえぜえと息をきらしながら「これ、私のはじめての彼氏」とスミヨシトに親指をさして言った。スミヨシトはちいさくお辞儀してみせた。

「まあ、おはいりなさい」

 雪子はずかずか部屋に入ってくる。

「おばあちゃん、きょうはチーズケーキあるー?」

「きょうはバウムクーヘン、生クリーム付き。手洗いなさい」

「きゃあ。スミくん、よかったね。あんたついてるよ」雪子は言いながら、スミヨシトをつれて洗面所へ行った。

 雪子が彼氏を連れてくるなんて、思いがけないことだった。うっすら聞こえもれてくる雪子とスミヨシトの話し声を聞きながら、春子はバウムクーヘンに包丁を入れる。

 ガラスの食卓テーブルにバウムクーヘンと温かい紅茶を並べ、ふたりと向かい合って座った。

 雪子はフォークで一口大に切ったバウムクーヘンに、生クリームをたっぷりつけて頰張り、満足そうな表情をみせるやいなや「ところで、おばあちゃん」と天気の話もなしに、本題に入ろうとしていた。春子は紅茶をひとくちすすったところで、スミヨシトはまだなににも口をつけていなかった。

「わたし、スミくんといつか結婚したいと思ってるの」雪子がいうと、スミヨシトはびくっとして、それからぎょっとしてみせ、そしてまた姿勢のいいしっかりとした感じに戻って、ゆっくりうなずいた。

「結婚ねえ」春子はため息をつくように、そうつぶやいた。

「おばあちゃんは、結婚に一度失敗しているでしょう」雪子は言った。スミヨシトはやっとひとくち飲んだ紅茶をおどろいたせいでうまく飲み込めなかったのか、けほけほと咳き込んでいる。

 春子はむすめを産んでまもない頃に離婚し、それからひとりで良子を育てた。何人か恋人も作ったけれど、結婚は二度としなかった。

「わたし、失敗したくないの。だから失敗したことのあるひとに、どうして失敗したのか聞いてみようと思って」さらに熱心に、ちからを込めて、雪子は聞いた。

 春子は紅茶をひとくち飲むと、席を立ち、ふたりに背を向けて窓辺の寝椅子に腰をおろした。ローテーブルの上のたばこをとり、くわえて火をつける。

「失敗のなにがいけないのかわからないわ。それに、別れは失敗とは言い切れない」

 春子は煙をふっと吐き出し、窓の外の薄曇りに目を向けた。雪子の表情は見えないけれど、だいたいこれと同じようなものだろうと思った。失敗したくない。きずつきたくない。まちがえたくない。うしないたくない。こわれたくない。そういう気持ちは、いまもたしかに春子の中にだってある。だから、雪子の気持ちがどれほど切実なものなのかもわかる。でも、と春子は思う。

「わたし、ぜったいに傷つきたくないの」雪子は、投げやりな感じで言った。

「雪子ちゃん」スミヨシトが口をひらいた。

「ぼくは雪子ちゃんとなら失敗してもいいと思ってるんだ。ぼくだって失敗は怖いけど、雪子ちゃんを傷つけることも、自分が傷つくことも怖いけど、でも、でも」それはとてもはっきりとした、主人公のような発声だった。

「でも、なに」雪子の声は、もうすでにとてもうれしそうだった。

「とても好きなんだ」スミヨシトは言った。

 お熱いことね、と春子は心のうちでつぶやいて、それから寝椅子にごろっと横になった。もうふたりの世界に春子は入っていないようだった。

 私の家なのに……と春子は思いながら目を閉じる。

 失敗したり傷ついたりすることと、絶え間なくしあわせでいることは、きっと矛盾しない。年老いた春子は本当にそう思っている。そんなことは知らない、わからない、けれど目の前の愛にはつい吸いこまれてしまう若者の軽薄さが、春子には懐かしかった。いろいろ落ちついたら皿などを片付けてから帰ってね、と祈るように思いながら、春子は眠りに落ちた。

 


小原 晩(おばら・ばん)
1996年、東京生まれ。2022年、自費出版にて『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』を刊行。独立系書店を中心に話題を呼び、青山ブックセンター本店では、2022年文芸年間ランキング1位を獲得。24年に大幅な加筆を経て実業之日本社から商業出版された。その他著書に『これが生活なのかしらん』(大和書房)がある。

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