源流の人 最終回 ◇ 石田多朗(音楽家、プロデューサー)

源流の人 最終回 ◇ 石田多朗(音楽家、プロデューサー)

1400年の歴史を持つ「雅楽」を世界に認めさせた異色の作曲家は自然への畏敬を音に刻んでいく

 真田広之プロデュースのドラマ『SHOGUN 将軍』の楽曲群を、総合アレンジャーとして英国イングランド出身の名音楽家・アッティカス・ロスらと共に手がけた石田多朗。ドラマは大絶賛され、そして日本の伝統音楽「雅楽」などを採り入れた楽曲群は、2024年にエミー賞の作曲賞、メインテーマ賞にノミネート。さらに2025年には音楽の最高峰・グラミー賞にもノミネートされた。ハリウッド的に曲解された「従前の日本像」ではなく、「正真正銘の日本」を鏡のように映し出し、昇華させていく。そんな石田の音楽スタンスは、いま、海外で高評を受けており、雅楽そのものにも光が当たり始めている。
取材・文=加賀直樹 撮影=松田麻樹

 春めいてきたある日の午後、栃木・那須。芽吹きを待つ木々の茂る森の中に建つ、石田多朗の自宅兼スタジオを訪ねた。都会の喧騒から逃れるように今から5年前、那須の地に移住した石田は、柔和な表情を浮かべながら、語り始めた。

「今の季節は、葉っぱが何もないじゃないですか。それがあと3、4週間もすると、緑が芽生え、朝起きると緑がうんと増えているんです。自然のそのグルーブ感、ダイナミックさ。夏になるとセミがうるさ過ぎて、レコーディングできなくなっちゃう(笑)。けれど、まあ、それはそれでいい」

石田多朗さん

 秋になると森一面が黄色や赤に染まる。冬が訪れ雪が降った途端、銀色の雪景色に変わる。そんなふうに四季の息づかいを全身で感じるうち、石田は、彼自身がコツコツと取り組んでいる「雅楽」について、「体感としてわかっていった」と語る。どういうことか。

「雅楽は、自然崇拝を音楽にしたものであると僕は思っているのですが、那須に移って来てからは、体感として、1400年前の人たちが何を好んで雅楽をやっていたかがわかってきたんです」

 彼のつくる音楽にプレイヤーとして参加している雅楽奏者たちも、そんな彼の変化を感じ取るうちに、少しずつ彼に信頼を寄せるようになってくれたという。

「『あ、石田、わかったんだ!』『追い付いてきたな!』と思ってくださったのか、いろんなことを教えてくださるようになったんです。那須の地に引っ越してきたのには意味があったと思いました」

石田多朗さん

 雅楽──。しょうひちりきなどの管楽器、などの絃楽器、かっなどの打楽器が用いられる。主に奈良時代から伝わる日本固有の音楽と、朝鮮半島や中国大陸などから伝来してきた、古代アジア諸国やシルクロードの芸能が、約1400年前に融合して熟成された音楽という。平安時代の中期には、ほぼ今のかたちに完成したと言われており、現存する「世界最古のオーケストラ」とも称される。石田は語る。

「雅楽が西洋音楽と根本的に異なるのは、ほとんど全部、口伝であることです。口伝以外に伝達方法がないし、教えることもできない。だから、基本的に『体感』なんですよね」

 朝4時に目覚め、外に出る。まだ辺りは真っ暗だ。ふと見上げた空には夥しい数の星が輝き、そのたびに、人間とはいかに小さい存在かを思い知る。あがいても、意味などない。自然のなかに「ちょっと居させてもらう」。毎朝そんな畏怖の念を抱くという。 「雅楽は、人間が自然とコミュニケーションする音楽だと思います。自然にひれ伏す、じゃないけど、圧倒的なものがある。『居させて頂いている』って感覚を得られたのは大きいと思います」

変わった花が咲く、その土壌を知る

 そんな雅楽への思いを存分に活かした作品が喝采を浴びた。それが『SHOGUN 将軍』。この時のサウンドトラックのつくり方は、かなり変わっていたという。複数の、時には10ほどもの音をミックスした独自の音色をつくり、それを充てていく作業をしていった。

「三味線15%、尺八を5%、いろんな音色を重ねて1つの音色をつくるんです。奈良、平安、鎌倉、江戸時代、みたいな感じで、いろんな時代の音を重ね、1つの音色をつくる。それで演奏していくんです」

 過去から現在までの日本の音が1つにミックスされ、それがいくつもの旋律として重なり合う。そうして『SHOGUN 将軍』の音楽が紡がれていく。憤怒や悲哀のどちらとも安易には語れない、この作品ならではの場面に、唯一無二の説得力を与えていく。

「1つの音色に悲しみや怒りを、レイヤー(層)にしていく。素材として、雅楽を取り入れていく。そんなやり方で進めていきました」

石田多朗さん

 古代より日本が積み重ね、磨き上げてきた音。それらが音楽プロデューサーのアッティカス・ロスはじめロサンゼルス側のグローバルな制作陣に感銘をもって受け容れられた。石田は続ける。

「雅楽の音色、形が珍しいというのは、植物で言えば花の部分ですよね。でも、音楽を探っていくと、茎や根っこがあって、その根っこが異なる土壌から育ったからこそ、変わった花が出てくる。ロサンゼルスの作曲家チームとの1年半の制作期間で、彼らは『その根本のことを探ろう』としてくれた。日本の音楽制作ではなかった掘り下げ方をしました」

 花ではなく、根っこも含めて珍しがる。こんな変わった花が咲くからには、日本の音楽の土壌って、きっと相当ユニークなんだろう。そこまで掘り下げる作業が続いた。

「そこは嬉しかった。その作業を経て、『SHOGUN 将軍』を世界的に広めていきたいと思うようになりました」

石田多朗さん

『SHOGUN 将軍』以降、雅楽の仕事のオファーが相次いで舞い込んでいる。東京・早稲田では2025年3月、雅楽と西洋音楽を融合させた演奏会を開き、会場は満員に。今後は欧州公演も決定している。

「音楽のフォームや、音楽の美学にメッセージを込めることによって、世の中の人々の意識を変革させていくのが音楽家の仕事だと思います。今、孤軍奮闘していて、仲間もほしいですね。『SHOGUN 将軍』以降、やっとフォームとして発表できたと、嬉しく思っています。雅楽、クラシックはあくまでも1つのフォーム。皆さんに聴いていただく状況が揃ってきた」

 音楽のフォーム、音楽の美学自体にメッセージを織り込む。それにより、音楽のあり方を追求していく。たとえば石田は、この春から始まるあるニュース番組の気象情報コーナーの音楽の依頼を受けた。そこでもそのメソッドを活かしている。彼は説明する。

「気象情報コーナーの音楽って、たとえば東京でも、……東京のような大都会なのに、雨、雲、風とか、自然現象の話ばかりする時間ですよね、珍しく。だから僕は気象だけにフォーカスを当てて、自然現象を表現する音で森の環境を再現する作品にしたんです」

石田多朗さん

 音楽自体、聴き方、捉え方を変え、今を生きる人たちを、生きやすくしていく。音楽は、そんな世界に繋げてくれる窓でありたい。そう石田は考えている。

「ありのままの姿を映し出す鏡ですね。自分を映す鏡として音楽を捉えています。僕の夢は、透明な美しい鏡をつくることです」

音の選択肢を狭めた「笙」

 日本のものなのに、なんだかハードルが高いような雅楽。そんな雅楽とはどんなものかを知る上で、象徴的な楽器があるという。

「『笙』という楽器です。17本、管があるんです。なのに、15本しか音が鳴らない。昔は17本すべて音が出たんですって。でも、いつからか2本、穴を埋めてしまったんだそうです」

 古今の楽器の歴史の常識は、鍵盤を増やす、音程をさらに細かくするなど、演奏の可能性を広げていくのが常だ。それが、雅楽の世界では真逆の方向へ進んでいる。

「この笙のように、演奏の可能性を減らしていくということがずっと謎だったんです。でも、可能性がたくさんあると、かえって、演奏を届けるための目標の『的』がわからなくなる。的に届かせるために、照準をどんどん狭めて、的に突き当たる矢をつくる。そのために可能性を減らす。一般常識で考えた場合の楽器の発展とは真逆の発想です。それをやるのが雅楽だと気づきました」

石田多朗さん

 可能性が広がるほど、かえって先行きを見通せなくなる。平安時代に栄華を極めた雅楽の美点に、千年以上も後の人々がたどり着けるよう、敢えて余計なものを削っていく。それを悟ってから石田は、古典としての雅楽の演奏形態を極力いじらず、作品づくりをしている。『SHOGUN 将軍』もそうだし、現在展開中のクラシックとの融合も、余計な改変を極力していないという。

「音楽家以外ありえない!」

 1979年、石田は父親の仕事の都合により米国・カリフォルニアで生まれ、育った。保育園の頃、日本に移り、大学は上智大学へ入学。そこで石田が学んだのは漢文学だった。彼は振り返る。

「論語、孟子とか、ああいったものを受容する学問が日本にはありました。儒学者のとうじんさいとか、思想家の荻生おぎゅうらいとか。それを勉強していました。芥川龍之介が好きで文学部に入って、そのときの教授が面白かったのもあり、何となく漢文を専攻したんです」

「音楽家になりたい」と漠然と思うようになったのは、大学3年生の頃だった。特に好きなアーティストがいたわけではない。また、その思いは当時、どこか茫洋としていた。卒業後1年間、石田は就職せず、東京・池袋のレコード店「COCONUTS DISK(ココナッツディスク)」でアルバイトに明け暮れた。音楽を自由に聴けるサブスクというシステムのなかった時代、音に埋もれる日々を送るには、レコード店のバイトが絶好だった。だが、こんな日々を続けるうち、鬱憤がたまっていった。

石田多朗さん宅の卓上

 ある日、雷に打たれたように、石田は決意する。

「音楽家だな! 音楽家以外ありえない!」

 もう、こうしてはいられない。バイトの休憩時間に店を飛び出し、近くの書店に駆け込み、大学受験の「赤本」コーナーへ。音楽大学の本を片っ端から手に取るも、専門的な準備の必要なピアノやソルフェージュ、聴音の問題ばかりが並んでいた。「ああ、ダメかも……」。そう落ち込みかけた瞬間、1校だけ「一芸入試」の、ウソみたいな試験で入学できる学科を彼は見つけた。それが東京藝術大学。日本の音楽教育における最高峰だ。彼は振り返る。

「当時、レコーディングやマネジメントなど、藝大で初めて音楽以外のことを学ぶ学科ができたばかりだったんです。音楽的能力をほとんど問わなかった。でもそれは最初の1、2年目だけだったようですが(笑)」

 ともかく半年間、猛勉強し、じっさいに石田は合格を果たしてしまう。ほかの藝大生が聞いたら卒倒しそうな話だが、案の定、「天才」が全国から集結する教室では、入学当初から挫折感を味わったという。そんな「天才」たちは、石田にとっては「魔窟の人たち」に見えてならなかった。「分厚いオーケストラスコアを初見でパラパラめくって理解してしまう人や、授業中、窓ガラスに当たる雨音を楽譜に起こす同級生もいました」

 もう無理だと担当教官に退学を申し出るも「せっかく入学金を払ったのだから、半年は在籍してみたら」と引きとめられた。音楽をやっていくことをあきらめた石田は、同じ大学でも美術学部の仲間をつくることにした。彼らの中には、大手広告代理店とのコネクションを持つ学生も多かったからだ。

「すぐに片っ端から仲良くなりました。そのうち気づいたんですが、代理店の人たちからすると僕は音楽のプロに見えるんですよね。『音校』から来た天才の一人だと思われたんです。そこからギャラのいい作曲の仕事をもらって……。もちろんそれまで1曲もつくったことがありませんでした」

石田多朗さん

 東京都庭園美術館、ポンピドゥーセンター、森美術館──。美術館でかけられる音楽や、各企業から求められる音楽を、どうにかこうにか在学中から積極的に制作するようになった。そんな日々を送るうち、石田はある重要なことに気がついた。

「自分よりあの『魔窟の人たち』に演奏してもらえばいいんじゃないかって。それまで彼らは全員敵だと思っていたけど(笑)」

 プロデューサー、ディレクターという仕事を、自分がやれば良い。それに気づいた瞬間だった。

「そこから大逆転し、みんな仲間になれたんです。誰とも喧嘩しなくていいし、『音校』の人からも『美術の人』からも貴重な人、間に入れる人、仕事を持ってきてくれる人って。誰かをライバル視しなくても、システムをつくれれば、みんなうまくいくことに気づいたんです。やめなくてよかった。やめていたら今頃、『SHOGUN 将軍』をやっていなかった」

雅楽の「ガ」の字も知らなかった

「雅楽」の道は自ら選んだわけではなかった。藝大の大学院を出て1年目、環境・空間音楽の作曲の仕事に従事していた折、母校から声がかかった。学内の美術館・陳列館で開催される法隆寺の展覧会「別品の祈り―法隆寺金堂壁画―」のBGMを制作してくれ、とのオファーだった。

「『打ち合わせに来てください』って言われて行ったら、とある先生が来て、僕の顔面を指さして言ったんです」

「はい、1階雅楽、2階しょうみょう。終わりっ!」
「えっ?」

 打ち合わせは約5秒で終わってしまった。

 さあ、どうしよう! 雅楽の「ガ」の字も知らない。それなのに雅楽をつくれとは! しかも、納品は2カ月後だ。たとえばボサノヴァが好きならば、自分にとってのボサノヴァをつくることができる。しかし、雅楽の良さを知らない自分に、自分なりの雅楽がつくれるのだろうか。研究と創作は文字通り、突貫工事で、楽曲を納品したのが、レセプションの開かれる数時間前。

「息も絶え絶え。本当にギリギリで納品できました」

 ところがまた、最大の試練が訪れる。プレオープンの日、最初に会場に訪れたのが、なんと坂本龍一氏だったのだ。

「『この音楽でいいのかな』ってもう不安で仕方ないとき、いきなり入ってこられたんです、坂本龍一さん。『やばい!』」

石田多朗さん

 固唾をのんで反応を見守っていた石田のことを、呼ぶ声がする。坂本のスタッフが石田を呼びにやって来たのだ。石田は振り返る。

「ああ、めっちゃ怒られる。そう思ったら、『すごく良いよ』って」

 坂本はこう続けた。

「すごいと思う。雅楽好きなの?」
「そこまでは行けていないです」
「続けた方が良いんじゃない?」

 雅楽作曲家としてのスタート。その背中を押したのは「教授」、坂本龍一だった。

常識を全部洗い直す

 その後、福島復興イベントの音楽監督を務めるなど、多忙ながら順調に実績を積んできた石田だったが、心身は悲鳴を上げていた。元々聴覚過敏の特質を持つ彼にとって、東京の喧騒は耐え難かった。しばらく音楽活動を休止。その頃、彼は自己分析を重ね続けたという。

「真面目に生きているつもりでも、社会と合わなくて自分の心が削れていった。自分の本心と、社会的に合わせようとしている自分とで、本心が削れ、倒れてしまったんです」

 いったん、自分の中の常識を全部洗い直そう。そう彼は決意した。

 そして、同じ大学の美術学部を卒業したデザイナーである妻の実家がある那須に転居した。喧騒から離れ、風や木々、鳥の声に耳を澄ませながら那須の自然と対峙するうち、しだいに雅楽の本質と向き合えるようになってきた。雅楽の特徴に対し、理解の解像度がみるみる上がってきた。たとえば、数ある音楽ジャンルのなかでも、珍しく「テンポアップしていく」という雅楽についての考察。

「それは人間が一生を経るうえで、1年の間隔が早まったりするように、あるいは、楽しいときは時間があっという間に過ぎるように、時間が変化する感覚を表現しているのではないか」

石田多朗さん

「あくまで僕の解釈ですが……。でも、全部を根本的に考え直すっていう癖が出たのは、その〝躁鬱〟の後なんです」

 あのつらい日々には、もう二度と戻りたくない。けれども、自己を問い直す作業を、静謐な自然のなかで続けたあの日々は、彼にとってかけがえのない経験となった。

 そしていま、もっと音楽の世界を自由にしていきたい。石田はそう考えている。『SHOGUN 将軍』以降、ホールやライブハウスから声がかかることが増えた。

「いまは音楽の聴き方自体を問いただしたい。だから、ホールのほかに、音楽家がやらないようなところでも積極的にコンサートを行い、『音楽とはなんぞや』という、みんなの感覚に問いかけることをやってみたい」

 東京・早稲田で行われた演奏会も、会場は古い教会だった。筆者も聴衆の一人として聴いたのだが、神と対峙し自分を見つめ直す教会という空間に響く雅楽の音、それは素晴らしかった。

「教会は、死や生と向き合うところで、お客さんも自然とそういうモードに入って聴いていただける。予定される欧州公演も、コロセウムや教会などを回るツアーにできないかと思っています」

「1400年前の超天才」に敬意を

 ここ数年、石田が取り組み続ける、「雅楽とクラシックを演奏する」という作業。一見すると相容れない行為にも思えるが、石田にとってそれは決して突飛なことではない。それは、彼が生きていくうえでの根本的な思想と関わるという。

「『人間ってほとんどみんな同じ』だと思うんです。戦争している人同士が集まったら、『お前とは話が合わない』ってなるじゃないですか。でも、火星から見ると、そんな人たちも、地球の中の小さな点に過ぎません。逆に、昆虫のアリからすると、僕らはでっかい生き物。また、人間の生体の成分を見ると、ほとんどそれは同じ。時代的に見ても、46億年分のほんの一点みたいなところに同時に僕らはいる。だから、ほぼほぼ同じなんですよ」

 なのに、残りの0.1%の差異を気にするから、ハレーション、衝突、罵り合いが起きる。

「ほぼ僕らは同じ。それが僕の根本的な思想としてあるんです。だから、雅楽とクラシックを対立させたいのではなく、『一緒だね』って言いたいんですよ。『こんなに違うのに一緒だね。ピッチも違うけど一緒だね』って」

石田多朗さん

 世界じゅうのどんな人だって、成分はほぼ同じ。長い歴史のなかで同時代に生きている。火星から見たらちっぽけだし、アリから見たらとんでもなくデカい。

「そして、結局死ぬ。『死ぬのは怖いよね』っていうのは世の中の99.9%の人に共通の思いだから、死をテーマにするのは、みんなにとってイコールな話。それで、教会とかそういうところを選びたいと思っているんです」

 古来伝わってきている雅楽の作曲者はいずれも「不明」だという。どうやってこの音楽がつくられたのかも、ほぼ解明できていないそうだ。演奏者が総意でつくったという説もあれば、その場その場で即興でつくったという説もある。「源義経がつくりました」などといった伝説もあるけれど、たしかなことは誰にもわからない。「けれど」と石田は語る。

「1400年前、雅楽をつくり上げた超天才がいたと想像しているんです。『未来のあなたたち、大変でしょ』みたいな感じで、玉手箱にしたのが雅楽だと思うんです。めっちゃヒントだらけだなと思うんです。私たちの先輩じゃないですか。愛情で残してくれたものとしか思えないな、って」

 雅楽とは森である。そんな表現を石田は使った。遠くから俯瞰すれば、こんもりと見えている音楽も、いざ中に入ってしまうと文字通り迷い込んでしまう。木々の揺らめき、風の声、鳥や獣の気配。はるか昔から受け継がれてきた、その「音」に、畏敬の念を抱き、耳を澄ませ、石田は旋律を紡いでいく。

石田多朗さん愛用の耳栓
聴覚過敏の石田には欠かせない耳栓。睡眠時にも装着して、布の擦れる音をシャットアウトする

石田多朗(いしだ・たろう)
音楽家・プロデューサー、株式会社Drifter 代表取締役。1979年米国カリフォルニア州サクラメント生まれ。東京藝術大学音楽学部卒。ディズニー製作・真田広之プロデュース・主演の『SHOGUN 将軍』での伝統邦楽の総合アレンジャーとして、アッティカス・ロス、レオポルド・ロス、ニック・チューバとともにサウンドトラックを制作し、2024年、エミー賞の作曲賞とメインテーマ賞の2部門でノミネート。25年には、年間の世界最高の音楽に与えられるグラミー賞にもノミネートされる。さらに、星野リゾート青森屋のねぶた祭りをモチーフにしたエンターテインメント「みちのく祭りや」の音楽監督を務めるなど、その活躍が国内外で注目を集めている。

石田多朗さん

※この連載は今回で最終回です。2020年4月から5年にわたり54人の方たちにご登場いただきました。ご協力とご愛読に感謝いたします。ありがとうございました。

 

萩原ゆか「よう、サボロー」第96回
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