武塙麻衣子「一角通り商店街のこと」9. 獏の夢書店
〜大学生の雄士とごはんの話〜
9. 獏の夢書店
朝、目が覚めてすぐに、今日は雨が降るんだなとわかる。傷といえばいささかおおげさだが、ぱっと見たところでは誰も気付かない程度の細く引き攣れた白い痕が、右ひじの外側にある。雄士本人はその傷がどのようにしてできたものか、不思議なほど何も覚えていないのだった。腕のなかほどがわずかにちりりと痛むのならば、その日、雨は降る。それだけである。雄士は眠い目をこすり、起き上がるとまず一番に窓際に置いたサボテンの様子を確認した。パティスリーポーリーでほとんど押し付けられるようにして受け取ったサボテンは、この一ヵ月、目に見えて育ちも枯れもせず、ただ淡々とそこにある。窓ガラス越しに秋の日の光をたっぷり浴び、雄士がときたまやる水を礼儀正しく吸い込んでいる。
降り出した雨は、四限が終わる頃にはあらかた上がっていた。中島は、落ち着かない様子で窓の外ばかりを眺め、教授からしょっちゅう送られている冷たい視線に気付く様子もない。今日のフットサルサークルが気になって仕方ないのだろう。多分なんのメモも取っていないだろうから、来週までの課題も後で教えてやらなければならない。チャイムが鳴るとほぼ同時に、じゃあ明日またな、と教室を飛び出して行った中島を横目に、ユンくんが、講義中に配られたプリントを指さして言った。
「この本を読んでみたいんだけど、図書館で予約待ちがすごい数なんだ。もう買っちゃおうかな」
教授が先週紹介してくれた『新・カウンセリングの話』という本だ。
「人気だからまだあるかわからないけどとりあえず生協に行ってみるよ」
正門前でユンくんと別れ、雄士は、商店街に寄ってから帰ることにした。今日は、きのこを数種類買ってそれを全部入れた辛い鍋を作ってみる予定なのだ。安くてうまいと中島が太鼓判を押していた。青果店に向かう途中、獏の夢書店の前を通り過ぎる。この店の前を歩くことはかなり多いけれど、店内に入ることはほとんどない。大学の生協で本を買うことが多いからだ。学生証でいくらか割引がきくので、講義に必要なテキストもそれ以外の気になる雑誌や小説などもつい商店街の書店ではなく生協で購入してしまう。だから店主の久利生さんとは喫茶ネムノキやおにぎり徳ちゃんで顔を合わせることの方が断然多い。一番最近、獏の夢書店に行ったのは、夏に修太の読書感想文のための本を買いに行くのに付き合ったくらいだ。獏の夢という店名もなんだか得体が知れず近寄りがたい。でももしかしたら、ユンくんの探している本があるかもしれないな、という軽い気持ちで、雄士は書店の重い扉を開けた。
「おや、めずらしい顔だね」
ドアの上部でお馴染みのベルがろろろんと軽やかな音をたてる。久利生さんは、カウンターから乗り出すようにして、買い物を終えたらしいお客さんと何ごとか真剣に喋っていたが、入ってきたのが雄士だとわかると、頰を緩めた。彼女は、頭の片側だけをかなり刈り上げ、もう片側は顎の下までつるりと綺麗に黒髪を伸ばしている。よく見える右耳にはよく光るピアスが少なくとも四つ。久利生さんは一見派手だ。よくわからないバンドTシャツを着ていることが多いし、穿いているパンツはいつもぴたぴたした黒で化粧はいつもなんというか、濃い。だけど幼稚園の先生が着ているみたいなひよこのアップリケのついたエプロンをつけているので、なんというかアンバランスだ。実家の母よりは年上だと思うけれどよくわからない。
「こんにちは」
「いらっしゃい。何かお探し?」
しゃがれた声で久利生さんが言う。
「あ、はい。ちょっとぐるっと」
曖昧にお辞儀をして、本棚の方を振り返る。雄士よりも少し背の高い年季の入ったこげ茶色の本棚がうなぎの寝床のように細長い店内にどっしりと奥まで並んでいる。天井からは、小さな木製のパネルがいくつもぶら下がり、「季節」とか「体」、かと思えば「哲学」などひとつひとつ説明が彫られている。
先ほどのお客さんが帰ったのか、いつの間にかすぐ隣に久利生さんが立っていた。洗いざらしのエプロンのポケットに両手を突っ込んで本棚の前に立っている様子は、さながら画家や彫刻家が自分の体の何倍もあるような巨大な作品を仕上げ、その前で最初の一息をついているかのようだ。
「獏の夢書店って、めずらしい名前ですよね」
話しかけると、久利生さんはニッと笑った。
「獏がね、夢を食べてくれるっていう話、聞いたことある?」
「あると思います」
雄士が頷くと、久利生さんは続けた。
「じゃあ、獏が見た夢は一体誰が食べてくれるのかしらってあたしは思ったのよ。それが知りたくてこの店を開いたの」
細い人差し指でついっと店内を指す。
「えっ。ここにある本ってぜんぶ獏についての本なんですか」
驚いている雄士の顔を見つめ、久利生さんが噴き出した。
「あんた、面白い子だね。そんなはずないじゃないの」
はーウケる、と久利生さんは目尻の涙を拭く動作までしてみせた。よく見てごらんよ。ここは海外文学の棚。そう言って上を向き、ぶら下がっているパネルを指さす。「海外文学」と彫られている。生き物の棚というのはひとつ向こうにあるらしい。
「獏の本ばかりじゃないけど、こうやって気になる本を並べていったらいつかどこかで偶然つながることがあるかもしれないじゃない」
「獏に」
「まあそう。獏にでもそうじゃなくてもさ。なんでもいいのよ。誰だって何かひとつくらいは探し求めてるものっていうのがあるでしょ、それに」
探し求めているものと聞いて、雄士は不思議な気持ちになった。それって実はすごく壮大な話なんじゃないか? 久利生さんは、ぽりぽりと頰を掻き、そんな大したことじゃないと肩をすくめているけれど、獏が見る夢の行方を考えて書店を始める人なんてきっとそんなにいないと思う。というか日本で久利生さんぐらいじゃないか? 普通はみんな自分が見た嫌な夢とか素敵な夢のことにしか興味がないのに、獏の夢のことまで気にかける久利生さんがなんだかものすごく心の広い優しい人に思えてきた。
「久利生さんてすごいですね」
「何、急に」
ウケる。またそう言って久利生さんはけたけたと笑う。
「それ、流行ってるんですか」
訊くと、
「いまの若者は言わないの?」
逆に訊き返されてしまった。
「じゃ、面白いって思った瞬間、口をついて出てくる言葉って何?」
そう言われると、確かになんだろう。
「面白い、ですかね」
なんだかそのまんまだね。久利生さんは急に興味を失ったかのように鼻に皺をよせるとカウンターの方へ戻って行った。
「動物園にさ、今度バク見に行ってごらんよ。可愛いよ」
ポケットからスマホを取り出そうとすると、
「調べちゃだめ! 面白くないから」
と、久利生さんが手を伸ばして制した。
「今の子って本当になんでもすぐスマホで調べるんだね。脳のシナプスが死ぬよ、シナプスが」
「シナプスは死ぬわけじゃないですよ」
久利生さんの眼鏡の奥で、青みがかった両目がきらりと光った。
「あんた、シナプス知ってるの」
「はい。一応、心理学部の学生なので」
雄士が頷くと、
「シナプスってのは要は骨と骨の間の関節みたいなものが頭の中にもあるんだとあたしは思ってるんだけど、専門家さん的にどう?」
レジの脇の空き瓶にさしてあったはたきをさっと手に取るとそのまま腕組みをして久利生さんは一気に喋った。はたきなんて古い映画の中でしか見たことがない。細い竹竿の先に細く裂いたカラフルな布が揺れている。こういうのはどこで買うんだろう。
「なに。あ、これ? 手作りよ。そういうワークショップがあるの」
雄士は頷いた。一言も訊いていないのに知りたかった情報が全部手に入ってしまった。
「僕、脳関係の専門家ではないです。ただの大学生なんで」
「知ってるわよ。冗談よ」
でも、骨と骨の間の関節というのは案外悪くない表現かもしれない。
「関節は骨同士をつないでいるわけですから、そういう意味ではシナプスと神経細胞の関係と似ているかもしれませんね」
「でしょう」
「ああ、でもやっぱり違います」
だって骨から骨へは情報が伝達されるわけではない。
「脳の中のニューロンという神経細胞はシナプスを通すことで、次の細胞に信号を送るんですよ。シナプスは、経験や体験によって大きくなったり小さくなったりするんです」
そうして記憶が形成されたり忘れ去られたりする。忘れ去られた記憶はどこにいってしまうのか。それこそ獏がこっそり食べてしまうのかな。
「そうだ。そういえばカウンセリングの本をなにか置いていないですか?」
獏の夢書店にやって来た理由をはたと思い出し、訊くと久利生さんは、なんてつまらない質問をするんだという顔をした。
「もちろんあるわよ、あっちの棚」
はたきでくいくいと指したのは、入口からすぐの棚だった。
「じゃ、僕ちょっとそっち見てきていいですか」
「どうぞ。ごゆっくり」
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