採れたて本!【デビュー#37】

2021年は逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』。2023年は葉山博子『時の睡蓮を摘みに』。海外を舞台にした骨太のミステリー長編を(たまたま)隔年で送り出してきた早川書房の公募新人賞「アガサ・クリスティー賞」から、今度は現代のイスタンブールを舞台にした本格的な警察ミステリーが登場した。川瀬美保『ボスポラス 死者たちの海峡』がそれ。
長編を対象とする最近のミステリー新人賞は、400字詰換算で500枚〜600枚程度を上限とする賞が多いが、クリスティー賞の上限は400字×800枚。上限がない新潮ミステリー大賞に次いで長く、受賞作を単行本化すると400ページ前後になることが多い(『ボスポラス』は440ページ)。江戸川乱歩賞や『このミステリーがすごい!』大賞の受賞作と比べて、2、3割ぶあつくなるが、その分、読み応えがある。
本書タイトルのボスポラス海峡は、ヨーロッパとアジア、西洋と東洋を隔てる海峡。両岸には、トルコ最大の都市が広がっている。そのイスタンブールのヨーロッパ側(西側)の中心部、海峡に面したベシクタシュ区が本書の主な舞台となる。どんな街なのか、本文の冒頭近くから抜粋してみよう。
春のイスタンブールは、天上の誰かが創造した傑作中の傑作だ。豊熟した緑の中で咲き狂う花々、 紺碧の海峡上を気持ちよさげに行き交う大小の船々、笑う猫やカモメたち。その背景にあるのは、自然とヒトの歴史が作り上げた〝憂愁の都市〟だ。二千有余年の歴史を背負い、愁いの中で生きることを運命づけられたイスタンブールっ子の顔にも、この時期だけは無防備な笑みが浮かんでいる。黒やこげ茶の重たい外套を脱ぎ捨てて、モノクロの世界から抜け出すことができた彼らは、実に幸福そうだ。
もちろん、例外もいる。
その〝例外〟のひとりが、本書の中心人物、オヌール・アスラン警部補。トルコのノーベル文学賞作家オルハン・パムクを愛読する、イスタンブール県警ベシクタシュ署きっての腕利き刑事だ。
時は2023年5月18日。トルコの名門プロサッカーチーム、ベシクタシュJKの勝利を祝うサポーターでごった返すベシクタシュ区のど真ん中で、女子大学生の飛び降り死体が見つかる。酒とクスリで酩酊した挙げ句の事故と見なされるが、前年1月の事件から数えて、同様の女性の転落死はこれが4件目。過去の3件もいずれも事故として処理されているが、われらがオヌールは、連続殺人として捜査すべしと主張する。しかし、署長はその訴えを一蹴、オヌールに新たな事件の担当を命じる。
今回、オヌールとチームを組むのは、本庁国際犯罪課所属の小柄な女性エリート警部、セルピル・ドーアンと、イスタンブール工科大卒の漫画オタク男子、ジャン・ドゥマン巡査部長。この〝三銃士〟が捜査側の主役になる。
こちらの事件が起きたのは5月19日。ベシクタシュ区にあるマンションの一室で、日本人女性の遺体が発見された。死因は縊死。被害者はウィーンで活躍していた有名ピアニスト、古谷ヒデミ。自殺と推定されるが、彼女は自分を自殺に追い込んだ人間の実名を挙げて告発する遺書を残していた。その背後には、イスタンブールに住む日本人コミュニティの特殊な人間関係と、高級住宅地の名門インターナショナル・スクールで起きたいじめ事件があるらしい……。
というわけで、連続女性転落死と、日本人ピアニストの自殺、この二つが物語の軸になる。後者に関しては、きわめて日本的な事件(日本のミステリーでよく見るような事件)がイスタンブールに移植されることで異化効果が生まれ、新しい光があたっている。
この長編で特徴的なのは、全体の9割以上がわずか1日(5月22日午後9時半からの24時間)の出来事を描いていること。リアルタイムドラマさながらに、複数の場所で複数プロットが複数視点のもと同時進行する。そのせいかどうか、登場人物がやたらに多い(挟み込みの登場人物表に名前があるキャラクターだけでも38人)。新人としてはずいぶん高いハードルに挑んだかっこうだが、書きっぷりはじつに達者。それぞれのパートに中心人物がうまく配置されていることもあって、読んでいて混乱することはなく、慣れてしまえば読みづらさも感じない。後半、無関係と思われていた事件同士の意外なつながりが明らかになりはじめ、どんどんスリルが高まってくる。
イスタンブール特有の〝チューヅマ〟(仕事で海外に駐留するパートナーについて海を渡った妻たち)事情、西洋と東洋、キリスト教文化とイスラム文化、富裕層と貧困層など、さまざまなレベルで異質なものが混じり合う街の特異性、トルコの警察組織の縄張り争い、さらには数々のご当地グルメや日本のオタク文化の浸透ぶりまで、多種多様なモチーフとテーマが渾然一体となり、海外ミステリの香り高い芳醇な小説世界をつくりだしている。年末年始にじっくり楽しみたい、異国情緒あふれる警察エンターテインメントだ。
なお、著者の川瀬美保は、1966年、三重県桑名市生まれ、横浜市在住。聖心女子大学文学部卒業、同大学院修士課程修了。専門はハプスブルク帝国近代史。訳書に『フランツ・ヨーゼフとハプスブルク帝国』がある。
「受賞の言葉」によれば、著者はもともと海外の警察ミステリ、とりわけレジナルド・ヒルの《ダルジール警視》シリーズが大好きだったが、ヒルの没後、もうこうなったら自分が会いたい犯罪捜査官は自分で創るしかないと決意した。その後、急な事情でイスタンブールに引っ越した時の仮住まいが、偶然にも、刑事警察の建物の数軒隣だったそうで、毎日のように目にした本物の異国の刑事たちの『優秀だけど、時々ポンコツ』な姿が本書の原点になったらしい。めったにない偶然がこの素晴らしい警察小説に結実したことを喜びたい。
評者=大森 望






