綿矢りささん『グレタ・ニンプ』*PickUPインタビュー*

綿矢りささん『グレタ・ニンプ』*PickUPインタビュー*
 作家デビュー25周年を迎えた綿矢りささん。その記念となる新作はコメディに振り切った『グレタ・ニンプ』。昨年発表した壮大な恋愛小説『激しく煌めく短い命』と同じ作者が書いたのかと思わせるほど、中身も見た目もファンキーな一作だ。
取材・文=瀧井朝世 撮影=田中麻以

 ページをめくってぎょっとする。文章の一部が大きなフォントとなっていて、真っ先に目に飛び込んでくる。そのポップで迫力のあるヴィジュアルは、ぜひ現物で確かめていただきたい。現物とは、綿矢りささんの新作『グレタ・ニンプ』のことだ。週刊誌「女性セブン」に連載された妊婦コメディ小説である。

「編集者さんが、『嫌いなら呼ぶなよ』を読んで声をかけてくださったんです。あれは結構ブラック・ジョークがきつめな作品集だったので、そういうテイストでもいいのかな、って。依頼された時にちょっとふざけていても許される気配を感じました(笑)」

 と綿矢さん。ではなぜ、妊婦の話を書こうと思ったのか。

「それが曖昧で。憶えているのは、夫が車を運転している時に後ろの席から〝今度妊娠している人を書こうと思う〟、〝題名を『グレタ・ニンプ』にしようと思う〟と言ったら、ちょっとだけ笑っていたから、いけるかなと思ったことです。はじめは、本当にそのアイデアしかありませんでした」

「今回は〝詩的〟とか〝抒情的〟とか〝なにか考えさせられる〟ということは一切考えずに、エキセントリックな笑いみたいなものを重要視して書いたと思います」

 最初に浮かんだのは妊娠した妻、由依のヴィジュアルだった。どんな姿なのかは、本作の表紙を見れば分かる。

 ただし視点人物は由依ではなく夫の俊貴だ。控えめで笑顔の可愛い由依と結婚、武蔵小杉にマンションを購入し、4年間夫婦で不妊治療を受けてきた。結果が出ずに子どもを持つことは諦めたとたん、由依が自然妊娠。妻とともに喜びを爆発させる俊貴だが、しかし戸惑いは大きい。なぜなら妊娠が分かった日から由依はすっかり人が変わってしまったのだ。坊主頭となって髪を紫に染め、一人称は「ワタイ」となり、『ドラゴンボール』の悟空のような喋り方で「オメは力入りすぎ! ガキができたぐらいでよう、んな慌てんなって!」と言いながら夫の頰を両手で力いっぱい揉んでくるような女性になったのだ。

 これまでのコメディ寄りの綿矢作品は、主人公の脳内で思考が暴走していく様を絶妙なユーモアで描写していくものが多かったが、今回の視点人物は暴走する由依ではなく、夫の俊貴である。

「今まで書いていたような頭の中でいろいろ考えている主人公は、その人自身の一人称にしないと内面が書けないんです。でも由依はまず外見と行動から変わっていく。本人よりもむしろ他者のほうが彼女を実況できるので、別の人が視点人物になりました」

綿矢りささん

 由依の行動は突拍子もない。だが、作者がコントロールしているわけではなく、勝手に動きだす彼女を追っていくような書き方だという。

「私もずっと彼女が何を考えているかが分からなくて。ただ外見のイメージだけが強くありました。たとえば由依はどこにいるのかなと考えると、公園や道端にいて、ママ団体に声をかけられたり、デモに参加してプラカードを持ったり、謎の路上ペインターに話しかけたりしている。妊娠してからというもの家にほとんど帰らず、外でぶらついている姿が浮かびました。それを文章にした後で、じゃあこの時彼女は何を考えていたのかと深掘りしていった感じです。いつもだったら最初に主人公の心の訴えが浮かんでそこから探っていくんですが、今回はもう本当に外見や行動が最初だったので、不思議な感覚でした」

 一方、俊貴は結婚前はヴィンテージカブに乗り、輸入食材店で買い物をし、「BRUTUS」を愛読するおしゃれな青年だった。

「最初、俊貴は鼻持ちならないタイプかと思っていました。プライドも高いし、ダサく変化していく由依をあまり許せていなかったんです。でもセルフィッシュではないんですよね。だんだん忍耐が備わってきて、由依の泥臭さみたいなものも許容するようになっていく。妻からするとありがたい夫になっていったな、と自分でも思いました」

 由依の想像の上を行く珍妙な言動に心の中でツッコみつつも受け入れ、彼女の心身の調子を気遣う様子がなんとも健気。

「単に優しいというだけではなくて、彼にとっても待望の子ども、ということがあります。彼自身も何年も妊活で苦労してきているし、お金も全部彼が払っている。子どもに対する思い入れは妻と同等くらいにはあるんじゃないかなと思います」

 冒頭に記したように、本書は随所に大きくて風変わりなフォントで強調された部分がある。由依だけでなく、この本自体がかなりファンキーなのだ。雑誌連載時、他の誌面に負けないくらいインパクトのあるページにするため、担当編集者が「言葉の強さを生かしてはどうか」と提案してくれたのだという。

「書いている時はまったく意識せず、書き上げてからここの部分の文字を変えると面白いかな、などと相談しました。雑誌の誌面を見て面白かったので、せっかくだから単行本にする時もそうしようという話になりました」

 単行本にするにあたってはデザイナーの佐藤亜沙美さんとともに、どの部分のフォントをどう変えるか、再検討した。

「全体のページ数の兼ね合いもあるので、いろいろ調整していただきました。ページをめくった瞬間に目に飛び込んでくる箇所も多いので、若干ネタバレ的なところもありますが(苦笑)、楽しんでもらえたら」

 実際、これが実に楽しい。ただし本書は笑わせるだけではない。たとえば作中、昨今の少子化問題、保育園問題などについて由依が語る言葉に、我が意を得たりと思う人も多いのでは。

「今回改めて調べてみたら、少子化対策や教育費、医療費などの問題には、たくさん波があると思って。年代順にしてみてみると、めまぐるしく法律やお金の問題が変わっているのがよく分かりました。由依は妊活期間が長かったから、その煽りを受けている期間も長いんです。だとするとかなり鬱屈を抱えているし、出費も相当だろうと想像しました。別に社会的な問題をたくさん入れようと思っていたわけではないんですけれど、彼女が当事者なので無視できませんでした」

 また、妊娠に成功した人が不妊治療について語る時、治療中の人や治療を諦めた人の視点が欠けてしまうと実感させられる場面も。

「過程というものがあるのに、結果だけで人を見るのは、まだ過程にいて結果が分からない人にとっては違和感があるだろうと思いました。社会だけではなく、当事者も結果しか見ないとしたら、なにかねじれたものを感じます」

 また、由依の豹変はマタニティ・ハイの影響だけでなく、彼女自身の切実な思いがあることも見えてくる。

「由依がなぜエキセントリックな姿になったのかと考えていくうちに、それまですごく苦労して、その苦労している時の自分を否定して、新しい自分に生まれ変わりたい気持ちがあるんだと、徐々に分かってきました」

 ある時俊貴は、妊娠前の由依のSNSの投稿の中に、〈妊娠したら、羽化したい〉という言葉を見つける。

「こういう人になりたいとか、こういうタイプに憧れているというのがあるなら方向性が定まっていたと思うんですけれど、彼女の願いが〝羽化〟だったので、彼女自身もどういうものが完成形なのか分からずにいる。分からないまま欲望を満たそうとした結果、非常にオリジナルなものになったという感じです。それに、単に自分がはっちゃけたいんじゃなくて、そのほうが子どもや自分たちのこれからの人生にいいのではないかという、生真面目な思いも根本にある。だから余計に奇抜に走ってしまうのかもしれません」

 では出産した後はどうなるのかと、気になる人は多いはず。

「連載時は出産したところで終わる話だなと思っていたんです。でも、途中で生まれた後の三人の姿も書かないと駄目だと気づきました。ただ、由依はまだまだ自分の完成形を見つけていない気がします。この先どうなっていくのか、私も全然想像できないです」

 本書にはもう一編、「深夜のスパチュラ」も収録されている。大学生の可耶が数回デートした相手にバレンタインのチョコを渡すまでの揺れ動く心をユーモアたっぷりに綴っており、こちらも随所に凝ったフォントが挿入されている。これは文藝春秋の「オール讀物」に掲載されたものだ。

「これもギャグテイストの話なので、『グレタ・ニンプ』と一緒に収録する短編としていいかなと思いました。ただ、これは雑誌掲載時、すべてノーマルフォントだったんですよ。どうせ一緒に収録するならこちらもフォントを変えましょうと、悪ノリしました。文春の担当編集者が単行本を見たらびっくりすると思います」

 今回の経験で、フォントの面白さに気づいた、と綿矢さん。

「視覚的な刺激が増えて、1ページごとに個性が出ました。それに、こんなに種類があるのかと驚きました。この文字は古い感じがする、などと時代性があるのも面白かったです。文字周辺文化も発達して多様になってきているから、そういうものを取り入れて、自由に小説が書けると楽しいですよね」

綿矢りささん

 今後も、抒情的な文章世界の作品はもちろん、楽しくてファンキーな作品もどしどし書いてもらいたい。

「笑えるものを書きたい気持ちは常にありますが、読む人の反応を予想できるほど洞察力に長けていないので暗中模索しています。指針が自分しかいなくて、自分が面白いなと思ったことを書くしかないんですよね。編集者さんの反応も見ますが、ウケなかったとしてもウケるように書き直す技術はないですし」

 いやいや、『パッキパキ北京』も相当楽しかったし、綿矢さんのユーモアセンスが好きだという読者は多いはず、と伝えると、

「そういうお褒めの言葉をいただいたことを、エネルギーにしています(笑)」

 とのこと。執筆のエネルギーになるのなら、もう、全身全霊でどこまでも褒めちぎりたいです。

グレタ・ニンプ

『グレタ・ニンプ』
綿矢りさ=著
小学館

綿矢りさ(わたや・りさ)
1984年、京都府生まれ。2001年『インストール』で文藝賞を受賞しデビュー。04年『蹴りたい背中』で芥川賞、12年『かわいそうだね?』で大江健三郎賞、同年に京都市芸術新人賞、20年『生のみ生のままで』で島清恋愛文学賞を受賞。他の著書に『勝手にふるえてろ』『私をくいとめて』『嫌いなら呼ぶなよ』『パッキパキ北京』『激しく煌めく短い命』など。


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