関口英子『戻ってきた娘』
岩に咲く一輪の花
「13歳のとき、もう一人の母親のことはわたしの記憶になかった。」という一文から始まるこの小説、10行にも満たない第1章で、早くも読者を物語の世界に引きずり込む魔力を持っている。いったいこの少女になにが起こっているのか。なぜ会った記憶もない実の母親の許に戻されることになったのか。それはそのまま、主人公「アルミヌータ〔戻ってきた娘〕」の悲痛な叫びでもある。どうして平凡な家庭で恵まれた生活を送っていたわたしが、困窮した家庭にいきなり連れてこられ、粗野な兄たちとおなじ部屋で寝、食べ物を取り合わなければならないのだろう。
ページを繰るごとに、独りではとうてい背負いきれない苦悩と日々向き合うことになった「わたし」の胸の内が赤裸々に炙りだされ、過去の出来事が解明されていく。そして、いつしか読者の心に彼女が住み着き、その怒りや悲しみ、喜びと共振し、「母親」とはいったい何なのかという根源的な問いへの答えを一緒になって求めずにはいられなくなるのだ。
家庭はブラックボックスだ。子供にとっては唯一絶対の存在である母親といえども、一人の女性にすぎず、社会の縮図ともいえる家庭において、抑圧された弱者であることも少なくない。だが家庭の内側にいるかぎり、そのような構図が子供に理解できるはずもなく、また外からも見えにくい。恵まれているように見える家庭であっても、大なり小なりのひずみはつきものだ。
小説には、そうした家庭という箱の内側に潜む闇に光を当て、想像させる力がある。「子供たちの心の傷の奥をのぞき込むことでしか見えてこないものを語りたかった」という本書が、多くの読者の心をつかみ、世界28か国で訳されているのは、自らの居場所を求めてさまよう数多の子供たちの声を代弁しているからでもあるのだろう。
とはいえ、「わたし」は決して孤独ではない。逆境のなかでも、持ち前の奔放さで大人の事情を軽々と超えてしまう実の妹、アドリアーナという心の拠り所を見出す。「わたしの妹。岩にへばりついたわずかな土くれから芽を出した、思いもかけない花。わたしは彼女から、抗うことを教わった」。
性格も、育った環境も正反対のこの姉妹が、時に反発しながらも心を寄せ合い、互いに欠かせない存在へと成長していく姿に救われる。
本を閉じたあと、装画のエメラルドグリーンのような爽やかな風がさっと吹き抜け、海で見つめ合う姉妹の姿がいつまでも心に残ること間違いなしだ。
関口英子(せきぐち・えいこ)
埼玉県生まれ。イタリア語翻訳家。2014年に『月を見つけたチャウラ ピランデッロ短篇集』で第一回須賀敦子翻訳賞を受賞。主な訳書にG・ロダーリ『猫とともに去ぬ』、D・ブッツァーティ『神を見た犬』、G・マッツァリオール『弟は僕のヒーロー』、F・M・サルデッリ『失われた手稿譜 ヴィヴァルディをめぐる物語』、I・カルヴィーノ『最後に鴉がやってくる』、P︎・ペレッティ『桜の木の見える場所』、D・スタルノーネ『靴ひも』、C・アバーテ『海と山のオムレツ』などがある。
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『戻ってきた娘』
著/ドナテッラ・ディ・ピエトラントニオ 訳/関口英子