採れたて本!【海外ミステリ#03】
シャーロック・ホームズ。かの名探偵に憧れを捧げた作品は数多い。しかし、それだけにハードルの高い分野だ。
今また、香港とインド、二つの場所から時を同じくして、ホームズへの新たなるラブレターが届いた。前者は莫理斯『辮髪のシャーロック・ホームズ 神探福邇の事件簿』、ホームズの事件と香港の時代性をクロスさせて、原典を一風変わった形で蘇らせたパスティーシュだ。対して、インドから現れた新星が、ネヴ・マーチ『ボンベイのシャーロック』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)である。
時は一八九二年。戦争で傷を負ったジェイムズ・アグニホトリにとって、気晴らしとなるのは新聞と、刊行されたばかりのコナン・ドイル『四つの署名』だった。いつしか彼は、ホームズに憧れを抱くようになる。ある時、彼は女性二人が転落死した事件の記事を見つける。妻と娘に先立たれた男の言葉に胸を打たれ、彼は調査を始める。ホームズの言葉を引用しつつ、溌溂としたヒロインに振り回されつつ、暴き出した真相とは?
近年、インドを舞台としたミステリーの傑作・良作が立て続けに紹介され、一つの潮流を形成しつつある。アビール・ムカジーは『カルカッタの殺人』に始まる〈ウィンダム&バネルジーシリーズ〉において、現代ミステリーの技法で歴史小説を織り上げる傑作シリーズを書き上げ、『阿片窟の死』でいよいよ一つの到達点に辿り着いた。『ボンベイのシャーロック』の訳者、高山真由美氏には、インドを描く歴史ミステリーとしても、紀行小説としても忘れ難い一作、M・J・カーター『紳士と猟犬』という訳書もある(こちらも必読の傑作だ)。舞台を現代に移せば、ディーパ・アーナパーラ『ブート・バザールの少年探偵』は少年の視点からインドのスラムの犯罪を描いた胸抉る犯罪小説だったし、R・V・ラーム『英国屋敷の二通の遺書』は一転、折り目正しいフーダニットに仕上がっていた。
そんな系譜の中でも、『ボンベイのシャーロック』は引けを取らない。評者が特に美点と感じたのは、単純に思われた事件が、少しずつ壮大な陰謀に繋がっていくその調査の過程だった。特に、ある人物から情報を引き出すために用意された見せ場のパートは見事だ。一介の私立探偵には手に余るほどの事件はやがて、主人公のホームズへの憧れと鮮やかな対比をなし、印象深い結末へと辿り着く。
思い返せば、『四つの署名』そのものが、インド大反乱の物語だった。それゆえに、引用や憧憬の描写に頼らずとも、この本には「ホームズの長編らしさ」が横溢しているのだろう。束の間のインド紀行にうってつけの一冊、ぜひお試しを。
『ボンベイのシャーロック』
ネヴ・マーチ
訳/高山真由美
早川書房
〈「STORY BOX」2022年7月号掲載〉