週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.52 成田本店みなと高台店 櫻井美怜さん
あんな女いなければいいのに、と思ったことはないだろうか。私はある。
一番仲がいいと思っていた友達が、自分以外の子と仲良くしているのを見た時。彼氏の携帯に元カノの連絡先が残っているのを知った時。自分が大切にしている人や場所が奪われそうになった時、私の中に潜んでいたどろりとした感情が鎌首をもたげてくる。
今村夏子の最新作には、決して他人事ではないが、かといって絶対に自分の物語ではない四篇が収められている。読むと心がざわつき、落ち着いて座っていられないむず痒さを感じる安定の不穏感。不穏が安定してはいけない気がするが、この不穏は中毒性があるのだ。
『とんこつQ&A』
今村夏子
講談社
表題作の「とんこつQ&A」の舞台は中華料理店である。とんこつ、という名前なのだから、さぞかし看板メニューのとんこつラーメンは美味しいのだろうと思っていると、この店にはしょうゆラーメンしかないという。出だしからざわざわさせるではないか。
主人公の「わたし」はとんこつで働き始めたその日から、自分が思い描いていたイメージと全くかけ離れた現実に愕然とする。「いらっしゃいませ」が言えないのだ。では他の「少々お待ちください」や「ありがとうございました」といった接客五大用語なら言えるかというと、もちろん言えない。一言も発することができずに、八時間の勤務時間を直立不動でただただ立ち続けるだけで終えるのだ。いや、普通はクビだろう。だが、優しい大将と、利発そうな看板息子の坊ちゃんはそんな「わたし」にまかないをふるまい、優しく見守り続ける。
そんなある日、「わたし」に転機が訪れる。自分から「喋る」ことはできないけれど、書かれた文字を「読む」ことならばできることに気がついたのだ。「わたし」はいらっしゃいませと書かれたメモをそっと忍ばせて店に出ると、あんなに困っていたのが嘘のように言葉が口から滑り落ちてくるではないか。だが接客はその一言では務まらない。「空いてる席にどうぞ」「ごゆっくり」お客さんとのやりとりに必要不可欠な言葉はエプロンやズボンのポケットを侵食し、パンパンに膨らませてゆく。「わたし」がメモを使いこなし、とんこつにすっかり馴染んだころ、もう一人スタッフを雇うことになる。だが、その女性も過去の「わたし」と同じように全く言葉を発しないのだった。
ざわざわはやがて悪寒となり、たまらず自分で自分を抱きしめた。今村夏子を読むと心が湿気る。早すぎる梅雨明けを嘆く前に、そんな水分補給はどうだろうか。
あわせて読みたい本
『マカン・マラン』シリーズ
古内一絵
中央公論新社
食べ物を絡めながら人々の悩みに寄り添う優しい物語は世の中に数あれど、ドラァグクイーンのシャールさんの心と身体を温める料理と言葉は、読むだけで滋養となり、疲れた私たち現代人を癒してくれる至高の一冊。
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『醤油と洋食』
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