特別インタビュー まさきとしかさん『あの日、君は何をした』を語る
母親の子どもへの歪んだ愛情を題材にした『完璧な母親』で注目された、まさきとしかさん。人間の心の闇に迫る緻密な描写が、読書好きの間で評価を得ています。新刊『あの日、君は何をした』は、ひとりの少年の事故死をめぐり、15年の時間軸が交錯するミステリー。〝イヤミス〟の新たな担い手との呼び声が高い、まさきさんの飛躍作として期待されています。執筆のきっかけから、本作を通して世に伝えたい思いなどを、語っていただきました。
人の死を記号でまとめてしまう違和感
──『あの日、君は何をした』を読ませていただきました。ひとりの少年の死の真相と、家族らの歪んだ心情が明かされる、重層的な長編です。構想のきっかけは?
まさき
小学館の担当編集者の方に、新作のご依頼をいただきました。そのときのオーダーが「心に闇を抱えた女子に響くミステリー」でした。私が書いてきた小説には大きく分けて、後味の悪くない小説と、後味の悪い小説があります。今回の担当さんは、後者の方が面白いと評価していました。ご依頼に沿って、女性たちが心に抱える闇の部分を描こうと思いました。
どうしようかなと考えていた頃、ある事件が起きました。2018年の夏に大阪の富田林署に留置中だった樋田容疑者が、署の外に逃走しました。逃げてからの詳しい足取りはつかめず、住民の不安は広がり、連日大きなニュースになっていました。
そんななか大阪市内で、バイクに乗った高校生の男の子が通報されました。樋田容疑者に見間違えられたんです。男の子はパトカーで追跡されたあげく、バス停の柱にぶつかり、亡くなってしまいました。あまり報じられない事件でしたが、私には強く印象に残りました。
男の子は無免許で、バイクも盗難車でした。それがわかると亡くなった男の子に対して「自業自得」とか「逃げた方が悪い」という声が上がりました。私は、それにすごく違和感を持ちました。男の子の背景を知らないのに、盗難車を無免許で乗り回したから死んでも仕方ない、と結論を出している人が少なくなかった。自己責任という記号に、男の子の死が、安易にまとめられているように思えたんです。
──死がひとつの表現で消費されることに、納得ができなかったのですね。
まさき
抵抗がありましたね。人は自分に関係ない事件を、理解しやすいように解釈します。死んだ人に対してもそう。だけど「死んでも仕方ない」で片づけて、いいの? と。乱暴なことですし、思考停止じゃないかと思います。記号でまとめてしまう側は、ひとりの人間が生きてきたこと、亡くなった人の家族や周りの人たちが、どれほど悲しんでいるか、想像できないのでしょう。あるいは想像したくないのか。
追跡事故で亡くなった少年に限らず、被害者側に何らかの非があったように言われる事例が、最近は多くなってきたような気がします。被害者を非のある存在として、自分たちから区切り、安全なところに留まろうとする心の働きがあるのかもしれない。
だけど人間の命って、記号処理できるものじゃないですよね。大阪の追跡事故で感じた違和感を、今回の物語に乗せて、構想していきました。
光も色も失った母親の時間を描く
──物語は15年前、逃走犯に間違えられ、中学生の大樹が事故死するところから始まります。母親のいづみは混乱しますが、その混乱は解かれないまま、物語は現在に飛びます。二部構成は、最初から考えられていたのですか?
まさき
ひとりの人間の死が、当事者にとって、そして他人にとって、年月をかけてどのように変化していくのかを書きたいと思いました。当事者と他人では、まったく別の時間を生きることになります。
大樹は高校入学直前に亡くなります。希望の光にあふれた時期ですよね。親にとっても、そうだったはず。けれど輝きは一瞬で奪われます。まぶしい光に満ちた世界と、光も色も失った世界を対比的に描きたいと思いました。
──いづみは大樹の死を受け入れられず、行動がエスカレートしていきます。母親の愛情ゆえの変化だったのでしょうか。
まさき
愛情もありますが、それだけではなかったと思います。彼女は、息子を愛し、愛されていることに自分の価値を見いだしていた女性です。息子を失っただけでなく、息子に愛され必要とされた自分自身も失ってしまった。言わば、失った自分自身に翻弄される人生を送ることになります。
いちばん書きたいことはなるべく書かない
──一部のラストで、いづみは凶行に及びそうになります。翻弄された結果とはいえ、母親の愛の深さゆえの行動で、胸が詰まります。
まさき
彼女はきちんと、大樹の死を悲しみ抜けなかったのでしょう。家族の死など耐えがたい悲しみを感じたときは、時間をかけて悲嘆のプロセスを踏むことが求められます。精神医療の分野でグリーフワークといわれますが、とにかく悲しんで、悲しみ抜くことが大事。そうすれば痛みは癒えないけれど、喪失と共に生きていく心ができます。いづみの場合、喪失と共に生きるより、大樹を取り戻すことに執着を傾けてしまいました。そこに彼女の根本的な暗闇があったと思います。
──それもまた母親としての実像ですね。
まさき
かもしれません。本当は、いづみの心の変化をもっと書きたい気持ちがありました。けれど、いちばん書きたいことは、なるべく書かないように気をつけています。わかりやすい言葉を使って書いてしまうと、自己満足になってしまう気がするんです。あえて今回は、いづみのその後をほとんど書かないようにしました。
読者の方にも、大切な誰かを亡くした経験のある人は、少なくないはず。悲しみを抱えた年月の過ごし方は、一人ひとり違いますよね。それぞれの悲嘆に重ね合わせて、いづみのその後を、想像してもらえたらと思います。
どうしようもない理不尽が現実にある無力感
──第二部の舞台は2019年。若い女性の他殺死体が発見され、愛人と思われる妻子持ちの男が失踪します。三ツ矢刑事の明晰な捜査により、15年前の大樹の事故死事件との意外な関わりが明らかとなっていきます。
まさき
三ツ矢はプロット段階では、人物像が定まっていませんでした。書いていくうちに少しずつ肉づけができて、死にまつわる悲しい経験をしているのだろうと推測できました。それで中学生のとき母親を不幸な形で亡くしているという過去が見えました。
三ツ矢は母親が死んだとき、世の中には努力では埋めることができない、理不尽なことがあると容赦なく突きつけられました。耐えがたい悲しみを背負って、生き続けなければならない。もう自分は心から笑えないし、幸せになれないだろうと、無意識に感じています。人生に不意に襲いかかる圧倒的な理不尽に対して、どうにもならない無力さを、深く理解している人間です。
三ツ矢の無力感は、私自身のものでもあります。小学生のとき、父を亡くしたときの葬儀場で、たまたま別の一家の葬儀も行われていました。飾られていた遺影が、小学1年生ぐらいの男の子だったのです。無邪気に笑っている、可愛い顔でした。こんな小さい子でも、命を奪われてしまうんだと、衝撃でした。お話の世界ではなく現実に、惨たらしく理不尽なことが普通にあるんだという無力感が、私の根っこに刻まれています。年齢を重ねるにつれて、あの男の子の無邪気な笑顔の遺影は、思い出されますね。
──無力感に苛まれているだろう三ツ矢ですが、彼なりの強い意志によって〝真犯人〟を突き止めます。
まさき
三ツ矢は真犯人に罪を償わせたいなどとは、考えていなかったでしょう。ただ無意識に、犯人を救いたいという気持ちは、あったのかもしれません。それが犯人の望みだったかどうかは別にして、三ツ矢の人間性があらわれた結果だと思います。
自分と話し合うことの重要性を問い直す
──失踪した息子の救出に我を失う智恵、夫やわが子に対して愛情が薄い野々子、野々子と秘密を共有する母親の瑤子など、何人もの母親の歪な振る舞いが、15年前と現在の事件の遠因となっている緻密な構成に感心させられます。
まさき
ありがとうございます。自分が何を考えて、何を感じているのか、内面を見つめる作業をおろそかにしていると、別の悲劇を生んでしまいます。辛い作業かもしれませんが、自分自身とじっくり向き合うことは、耐えがたいほどの喪失感と共存するためにも絶対に必要です。いまは、それをないがしろにしている人が、すごく多くなったように感じます。だから、他者への想像力や共感力が欠けている。事件の被害者に自己責任とか自業自得みたいな心ない言葉を投げつけたり、誰かの気の利いたコメントを、さも自分の意見のようにSNSで発信したり、深い思考ができなくなっているのではないでしょうか。
『あの日、君は何をした』では、年単位の時間をかけて、自分と話し合うことの重要性を、問い直したい気持ちがありました。何か悲しいことに遭ったとき、悲しみを埋めようともがくのではなく、いったん立ち止まることも大切です。
好きなニュースや好きな意見、見たい言葉にだけ意識を向けて、理解できないものとか、痛みの伴う行為から逃げることは楽かもしれませんが、そこからは何も生まれません。心に生じた感情をノートに書き出すなど、自分の内面を見つめていく作業を忘れてはいけない。自戒をこめて、そう思います。
〈「きらら」2020年8月号にも掲載予定〉
まさきとしか
1965年生まれ。北海道札幌市在住。2007年『散る咲く巡る』で第41回北海道新聞文学賞を受賞。2013年に発表した『完璧な母親』が話題となる。他の著書に『夜の空の星の』『熊金家のひとり娘』『ある女の証明』『大人になれない』『いちばん悲しい』『玉瀬家、休業中。』『ゆりかごに聞く』『屑の結晶』など。