【日記文学】浮気、入院……そんなことまで書いてたの? “作家の日記”セレクション
浮気を詳細に綴った石川啄木の日記から、戦時中の暮らしを鮮明に描いた山田風太郎の日記まで。現代作家の味わい深い“日記文学”を、厳選して4作品ご紹介します!
交換日記、旅行記、観察日記、ダイエットの記録……。私たちは、短い期間から時には何十年にもわたって、さまざまな理由で「日記」をつけることがあります。小説や詩、ブログと違って、他人に読まれることを想定していない日記には、取り繕うことのないその人らしさが、意識せずとも色濃く表れるものです。
日本では古くから、日々の何気ない記録を綴った『蜻蛉日記』や『土佐日記』が、“日記文学”として立派に古典文学の1ジャンルを築いてきました。
……しかしそこまで遡らずとも、味わい深い「日記」を遺した現代作家は数多くいます。今回はそんな“作家の日記”にスポットを当てて、今だからこそ読みたい日記作品を4つ厳選。明治から平成に至るまでの作家たちの日常生活を、少しだけ覗き見してみましょう。
赤裸々すぎる浮気の告白! 石川啄木『ローマ字日記』
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作家の日記、と聞いて、かの有名な石川啄木の『ローマ字日記』をまず思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。啄木は10年にわたって日記をつけていましたが、明治42年4月からの約2ヶ月間は、実験的にローマ字表記を用いて日記を綴っていました。
特筆すべきは、登場する人物の行動や、その会話の描写の細かさ。中でも、“浮気”の描写の赤裸々さには目を見張るものがあります。
lkura ka no Kane no aru toki, Yo wa nan no tamerô koto naku, kano, Midara na Koe ni mitita, semai, kitanai Mati ni itta. Yo wa Kyonen no Aki kara Ima made ni, oyoso 13-4 kwai mo itta, sosite 10nin bakari no Inbaihu wo katta. Mitu, Masa, Kiyo, Mine, Tuyu, Hana, Aki ……Na wo wasureta no mo aru.
(日本語表記)いくらかの金のあるとき、予はなんの躊躇うこともなく、かの、淫らな声に満ちた、狭い、汚い街に行った。予は去年の秋からいままでに、およそ13-4回も行った。そして10人ばかりの淫売婦を買った。ミツ、マサ、キヨ、ミネ、ツユ、ハナ、アキ……名を忘れたのもある。
なんと、関係を持った吉原の遊女の名前を一人ひとり書き記しているのです。
日記の中には、こんな描写まで登場します。
Tuyoki Sigeki wo motomuru ira-ira sita Kokoro wa, sono Sigeki wo uke-tutu aru toki de mo Yo no Kokoro wo saranakatta. Yo wa mi-tabi ka yo-tabi tomatta koto ga aru. Jûhati no Masa no Hada wa Binbô na Tosima-onna no sore ka to bakari arete gasa-gasa site ita. Tatta hito-tubo no semai Heya no naka ni Akari mo naku, iyô na Niku no Nioi ga muh’ to suru hodo komotte ita.(中略)
Yo wa Onna no Mata ni Te wo irete, tearaku sono Inbu wo kakimawasita. Simai ni wa go-hon no Yubi wo irete dekiru dake tuyoku osita. Onna wa sore de mo Me wo samasanu:
(日本語表記)強い刺激を求むるイライラした心は、その刺激を受けつつあるときでも予の心を去らなかった。予は3度か4度泊まったことがある。18のマサの肌は貧乏な年増女のそれかとばかり荒れてがさがさしていた。たったひと坪の狭い部屋のなかに灯りもなく、異様な肉の匂いがむっとするほど篭っていた。(中略)
予は女の股に手を入れて、手荒くその陰部をかき回した。しまいには5本の指を入れてできるだけ強く押した。女はそれでも目を覚まさぬ。(1909年4月10日)
遊女との一夜の出来事を詳述する姿は、夭逝した天才歌人のイメージからは程遠いかもしれません。しかし、「強い刺激を求むるイライラした心は、その刺激を受けつつあるときでも予の心を去らなかった。」といった切実な心理描写からは、自らの借金のせいで生活に追われ、妻子とも離れて暮らすことを余儀なくされた当時の啄木の不安定さが伝わってきます。
気になるのは、なぜローマ字表記を用いたかという点。その理由を、啄木本人が日記の最初の日にこう記しています。
naze kono Nikki wo Rômaji de kaku koto ni sitaka ? Naze da ? Yo wa Sai wo aisiteru ; aisiteru kara koso kono Nikki wo yomase taku nai no da.
(日本語表記)なぜこの日記をローマ字で書くことにしたか? なぜだ? 予は妻を愛してる。愛してるからこそこの日記を読ませたくないのだ。(1909年4月7日)
「愛してるからこそ読ませたくない」――そんな啄木の思いとは裏腹に、この日記は彼の死後、妻・節子の手により金田一京助のもとに渡って公開され、後にその文学的価値が評価されることとなります。
自分が死んだら日記を燃やせ、と啄木から指示されていたにもかかわらず、その約束を破った理由を、「愛着から燃やすことができませんでした」と述べた、と言われている節子。もしかするとそれは、浮気三昧の夫に対する、妻のささやかな復讐だったのかもしれません。
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好奇心に満ち溢れた、ユーモラスな病床記――正岡子規『病牀六尺』
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「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。」――そんな書き出しで始まるのが、俳人・正岡子規が結核を患った晩年、死の2日前まで書き続けた随筆集『病牀六尺』です。
子規の時代、結核は不治の病とされていました。しかし彼は、やがて迎えるであろう死を嘆くことなく、淡々と、自分の病状や心理状態、同時代の俳人たちとの交流を『病牀六尺』の中で綴っています。
肺を病むものは肺の圧迫せられる事を恐れるので、広い海を見渡すと
洵 に晴れ晴れといい心持がするが、千仞の断崖に囲まれたやうな山中の陰気な処にはとても長くは住んで居られない。四方の山に胸が圧せられて呼吸が苦しくなるやうに思ふためである。(中略)蕪村の句に屋根低き宿うれしさよ
冬籠 といふ句があるのを見ると、蕪村はわれわれとちがふて肺の丈夫な人であつたと想像せられる。この頃のやうにだんだん病勢が進んで来ると、眼の前に少し大きな人が坐つて居ても非常に息苦しく感ずるので、客が来ても、なるべく眼の正面をよけて横の方に坐つてもらふやうにする。(1902年7月1日)
結核にかかると、山を見ても大柄な人を見ても胸が苦しくなるように思われる。「屋根低き宿」にうれしさを感じる与謝蕪村は、肺が丈夫だったのだろう……子規はこんな風に、決して感傷的にならず、淡々とかつユーモアを交えて、日々の出来事とその考察を記し続けます。
人間の苦痛はよほど極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度にまで想像したやうな苦痛が自分のこの身の上に来るとはちよつと想像せられぬ事である。(1902年9月13日)
死の直前においてもなお、「想像できないような苦痛が自分に降りかかるなんてちょっと想像できなかった」とあっけらかんと綴る子規。その強靭な精神力と軽妙な筆致には、病人でなくとも励まされ、元気をもらえるような気持ちになります。
無垢な感性で、徹底的に「観察」する。武田百合子『日日雑記』
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武田泰淳の妻で、彼の死後に数冊の随筆作品を遺した随筆家・武田百合子。彼女の飾り気ない、無垢な文章を堪能できるのが、娘・花子(文中では「H」)との何気ない日々を綴った『日日雑記』です。
たとえば、花子とふたりで、近くの食堂に入った日のこんな記録。
私は『五目セット』、Hは『いなりきしめんセット』を注文。(中略)
「どんな味ですか?」自分の注文した『いなりきしめんセット』がまだこないHが、先に食べはじめた私に質問などする。「アマい!!」Hはいい気味そうに笑いだす。「やっぱり! どっかヘンですか!!」「カラい!!」ますます、いい気味そうに笑う。隣のテーブルに向い合って腰かけている男女の男の方が、黒革ジャンパーに、ちりちりのパーマ頭の半身をのり出して、心配そうに私を見る。『いなりきしめんセット』がHの前に運ばれてくる。きしめんを一口すすったHに私が質問する。「どんな味ですか?」「味がない!!」すると、今度は女の方が心配そうにHを見た。女は水商売風のきれいな人。やがてこの二人の前にも注文のものが運ばれてきた。男が『五目セット』、女が『いなりきしめんセット』であった。
ただ、母娘でまずい定食を食べてしまった……そんなありふれた内容の日記が、ひとたび武田百合子の手にかかると、こんなにも生き生きとした随筆作品になるのです。
彼女の文章は、必ずしも日常を面白おかしく切り取ったものばかりではありません。
お風呂に入っているときも雷鳴がしていた。雷鳴の合間に、ふと玉が元気ないい声で鳴いたように思い、濡れ裸のままとび出して行ってみると、四本の白い肢をすんなりと揃え、首をのばしてね入っていた。もう一度湯舟に浸りなおしてから行ってみると、さっきの恰好のまま息をひきとっていた。(中略)
私より遥か年上となった玉は、歩いていてふっと立ち止まり、そのままの姿勢で壁に向い、じーっと動かないでいることが多くなった。私は「ヨード卵光」という普通の卵でない卵を割って黄身を甜めさせ、「おーい。大丈夫かあ。長生きせえよお」と、ついぞ他人にもわが身にもかけたことのない言葉をかけた。玉は瞬間的剥製からよみがえり、歌舞伎子役のような声を張り上げて、「あーいー」と返事した……。
私はバナナを食べながら、この猫がうちにきてからの、いろいろなことをどっと思い出して、食べながら泣いた。
これは、愛猫の「玉」が死んでしまった日の日記。「バナナを食べながら」泣くというのがなんとも自然で、それでいて非常に切なく、胸に迫ってくるように感じられるのではないでしょうか。
文芸評論家の加藤典洋は、武田百合子の随筆作品について、「生活全体がティファニーで朝食を摂る小説の主人公のように『旅行中』。浮遊している。」(『すばる』2017年4月号より)という評を寄せたことがあります。
ベタベタとした感傷を交えず、その類まれなる観察眼で日々の暮らしを鮮明に描いた武田百合子。彼女の作品を読むたびに、私たちの日常はさほど変わらない毎日の繰り返しであると同時に、「旅」の一部でもあるのだ、ということを思い出します。
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戦時下における日記文学の金字塔――山田風太郎『戦中派不戦日記』
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伝奇小説や推理小説のジャンルで活躍した小説家・山田風太郎が戦時中につけていたのが、『戦中派不戦日記』。昭和20年当時、23歳の医学生であった山田風太郎は、日本が敗戦に向かうまでの1年間の生活の記録を時に力強く、時に繊細な文体で残しています。
風も強し。下枝にははや青き若葉萌え出でたり。夕日雲を透して、桜の上半は淡紅の霞のごとくやわらかにかがやき、家々の陰なる下半分は薄紫に翳る。(1945年4月11日)
……と、まるで古典文学のような美しい情景描写があるかと思いきや、
蒸暑し。終日鬱々茫々たり。
夕より夜にかけて雷雨――「原子爆弾だ!」と叫ぶ者ありて、みな大恐慌大爆笑。(1945年8月12日)
などという、戦時下にしてはあまりにブラックすぎるユーモアも端々に見て取れます。日本が降伏し、ついに終戦を迎えた8月15日の翌日の日記には、終戦当日の様子がこんな風に綴られています。
その日も、きのうや一昨日や、またその前と同じように暑い、晴れた日であった。
朝、起きるとともに安西が、きょう正午に政府から重大発表があると早朝のニュースがあったと教えてくれた。その刹那、「降伏?」という考えが僕の胸をひらめき過ぎた。しかしすぐに烈しく打ち消した。日本はこのとおり静かだ。空さえあんなに美しくかがやいているではないか。(1945年8月16日)
戦中派“不戦”日記という文字どおり、この日記には桜を愛でたり冗談を言い合ったり、戦時中にも医学生としてごく普通の大学生活を送る山田の姿が描かれています。
戦時下における貴重な生活の資料としても、ひとりの若者の生き生きとした日常の記録としても、読むたびに新たな発見ができる名作です。
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おわりに
大胆な浮気の告白から、娘と食べた定食のメニューまで。日常は一見なんの変化もないようでいて、よくよく観察すれば小さなドラマに満ちているということを、作家たちの日記は私たちに教えてくれます。
日々を記録することは、本来ならば忘れてしまうようなさりげない風景や会話、心に浮かんだ小さな考えを、いつでも取り出して眺めることができるようにする暮らしの工夫でもあります。あなたも、つい書き留めたくなるような出来事に出会ったなら、その日から日記をつけてみてはいかがでしょうか。
初出:P+D MAGAZINE(2017/07/22)