【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール
池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の2回目。「陸軍の父」「軍閥の祖」と呼ばれた、山縣有朋について解説します。
第2回
第3・9代内閣総理大臣
山縣有朋
1838年(天保9)~1922年(大正11)
人脈を駆使し、藩閥政治を貫いたリーダー
Data 山縣有朋
生没年 1838年(天保9)閏4月22日~1922年(大正11)2月1日
総理任期 1889年(明治22)12月24日~91年(明治24)5月6日、
1898年(明治31)11月8日~1900年(明治33)10月19日
通算日数 1210日
出生地 山口県萩市川島(旧長門国萩城下川島庄)
出身校 松下村塾
歴任大臣 内務大臣、農商務大臣、司法大臣
ニックネーム 山公、先入斎
別名(幼名) 辰之介、小助(小輔)、狂介
墓 所 東京都文京区音羽の護国寺
山縣有朋は明治の
やがて山縣は政治の舞台に躍り出ます。この時期、自由民権運動が活発化し、新政府は憲法制定、議会開催を明治天皇の名で約束しなくてはなりませんでした。山縣は第3代総理となり、初の衆議院議員総選挙、第1回帝国議会に臨みます。
秩序を重んじた山縣は死ぬまで政党政治を嫌い、
山縣有朋はどんな政治家か 池上流3つのポイント
1 国軍の父・軍閥の祖
幕末に、
2 藩閥政治家
明治新政府の政策決定は、ほとんど長州藩と
3 死ぬまで元老のトップ
元老という役職は憲法には規定されていませんが、明治時代中期から昭和初期まで総理の選任にかかわり、重要な政治的判断をくだす際にも強い影響力をもっていました。山縣はその元老の中でもとくに発言力が強く、「元老の中の元老」とまでいわれます。長生きした山縣は、最晩年まで政界に君臨し続けたのです。
山縣有朋の名言
「
ー しばしば、軍人出身の自分のことを評して。
一介の武弁とは、たんなるひとりの武人、軍人ということ。
国家の独立を維持し国勢の伸張を図ることが
ー 第1次山縣内閣施政方針演説で、民党へよびかける。
憲政は欧米人の特有にあらず、
わが憲政の前途多望なり。
ー 憲法発布20年を祝う式典での演説。
揮毫
あだ守るとりでのかゞり影ふけて
なつ(夏)も身にしむ
山口県立山口博物館蔵
和歌を趣味のひとつとした山縣が、北越戦争従軍中に詠んだ歌。「越の山風」は、のちに執筆した従軍記録のタイトルにもなった。
人間力
◆面倒見の良さ
◆裏表のない仕事ぶり
山縣が強い権力欲をもっていたことは確かである。しかし、下級武士から身を起こした山縣は、その仕事ぶりで自分を認めさせるしか方法がなかった。
◆謹厳 なる態度がリーダーの風格を生む
山縣の暮らしぶりは規則正しく、決して
(「池上彰と学ぶ日本の総理16」より)
初出:P+D MAGAZINE(2017/07/21)