【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール
池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の23回目。近代海軍を築き上げ総理の座についた「山本権兵衛」について解説します。
第23回
第16・22代内閣総理大臣
山本権兵衛
1852年(嘉永5)10月15日~1933年(昭和8)12月8日
Data 山本権兵衛
生没年 1852年(嘉永5)10月15日~1933年(昭和8)12月8日
総理任期 1913年(大正2)2月20日~14年(大正3)4月16日、1923年(大正12)9月2日~24年(大正13)1月7日
通算日数 549日
出生地 鹿児島市加治屋町(旧鹿児島城下加治屋町)
出身校 海軍兵学寮
歴任大臣 海軍大臣など
ニックネーム 海軍の父
墓 所 東京都港区の青山霊園
山本権兵衛はどんな政治家か
1. 「海軍の父」
山本権兵衛は、明治新政府が設立した海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)の出身。ドイツ軍艦への乗船訓練や、樺山資紀海軍次官に同行した欧米視察で見識を高めました。海軍大臣官房主事になった39歳のとき、思い切った人員整理をし、海軍の刷新を図ります。
日清戦争前には「海上権(制海権)」の考えを陸軍にも広め、陸海の連携を強化。日露戦争では第1次桂太郎内閣の海軍大臣として東郷平八郎を連合艦隊司令長官に起用、日本を勝利に導きます。海軍軍令部を創設し、「海軍の父」と呼ばれました。
2. 不運な大物政治家
山本は、維新の元勲(元老)に続いて登場した桂太郎、西園寺公望らの世代に属します。
内閣総理大臣選びでは、山縣有朋の発言力が強く、「長(長州)の陸軍」の優位が長く続いていました。これに対し、「薩(薩摩)の海軍」を代表して、総理を2度務めたのが山本です。
ただし、第1次内閣でシーメンス事件、第2次内閣では「虎の門事件」が起こって引責辞任。実力と関係なく、不運な巡り合わせとなりました。
3. 帝都の復興
1923年(大正12)9月、第2次山本内閣の組閣最中に関東大震災が起こります。山本は、震災からの復興を内閣の最優先課題と位置づけました。
復興事業をゆだねられた後藤新平内務大臣は、被災地の土地の買い上げ、道路拡幅、区画整理などの大胆な帝都復興計画を策定し、あらたに帝都復興院を設立します。しかし、後藤の影響力拡大を望まない勢力が後藤つぶしに走り、復興予算は削られ、復興院も廃止されてしまいました。
山本権兵衛の名言
功労者は、勲章をやればいいのです。
実務につけると、百害を生じます。
――海軍大臣官房主事時代に、思い切った人員整理を行なう
東京を復興するの努力如何は世界列強の環視する所、
我が邦の実力如何を知るの試金石、またここに在り。
――関東大震災から2週間後、復興取り組みの覚悟を述べて
山本権兵衛の人間力
♦ 抜擢人事――山本権兵衛
山本権兵衛は海軍大臣時代、斎藤実大佐を海軍省総務長官(海軍次官に相当)に抜擢する。さらに自分のあとの海軍大臣を託し、斎藤はのちに第30代内閣総理大臣になる。
斎藤は岩手県水沢町(現奥州市)出身。同様に抜擢した島村速雄(のち軍令部長、元帥)は高知出身、加藤友三郎(のち海軍大臣、第21代内閣総理大臣)は広島出身。山本自身の出身である薩摩閥にとらわれない、公平な人事を行なった。
♦主義は貫きとおす――山本権兵衛
山本は揮毫をしない主義だった。1913年(大正2)、大正天皇はほとんどの要人の書が手元に揃っているのに、山本の書がないことに気づき、「示山本総理大臣」としたためた宸翰(天皇が書いた文書)を贈る。答礼として揮毫が戻ってくると考えていたが、山本は「揮毫せず」を守りとおし、大正天皇に返礼を出さなかった。宸翰は山本家の家宝となる。
(「池上彰と学ぶ日本の総理19」より)
初出:P+D MAGAZINE(2017/12/15)