週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.32 三省堂書店成城店 大塚真祐子さん


恋愛の発酵と腐敗について

『恋愛の発酵と腐敗について』
錦見映理子
小学館

 さくら通り商店街というありふれた名前のアーケードに、様々な過去をもつ女たちが集い、やがて一人の男をめぐり、ありふれた騒動が勃発する。その一連をとおして女たちがどのようにふるまい何を思ったか、各々の面ざしを丹念に見つめた群像劇は、予想もしない結末へと向かう。

 二十九歳の万里絵は上司との不倫ののち会社を退職し、商店街の中程に喫茶店を開くが、内装にこだわった紅茶の店はさして繁盛もせず、客層に合わせて店内もメニューも変更を余儀なくされた。しかし、こうやって他人に流され不倫にも至ってしまったのだと、自分自身にどこか苛立ちを覚えている。

 喫茶店の常連客である四十三歳の早苗は、九年前に夫を亡くしてから、商店街の入口にあるスーパーマーケットでレジパートをしている。静かな余生を望んで暮らしてきたが、パン屋の店主である三十二歳の虎之介と衝動的に体を重ねて以来、自ら「恋」と名付けた虎之介との逢瀬にのめり込んでいく。

 奇妙な距離感で二人と関わるのは、虎之介の妻で五十四歳の伊都子だ。二度の離婚経験を持つ伊都子は、線路の向こうに開いたスナックのママを務めている。虎之介とは「体の相性」が良く、愛なんてどうでもいいとうそぶき、虎之介に寄って来る女たちをつぶさに受け入れてきた。〈みんなかわいそうに。虎之介も、女の子たちも、自分も。〉

 女たちはそれぞれの立場で社会と向き合い、自立を目指してきた。そこに立ちはだかる数々の壁を前に心情を吐露するたび、彼女たちを同志のように見つめている自分に気づく。例えば次のような述懐だ。

〈若いのも可愛いのも女性なのも、自分のせいじゃない、と万里絵は言い返したかった。〉

〈なぜ出会ったり別れたりするたびに、子どもを産むか産まないかという選択を突きつけられるのだろう。/妻か母にならないといけないのだろうか。〉

〈虎之介に会うまで、伊都子はずっとさびしかった。誰も自分の愛にこたえてくれない、と思ってさびしかった。〉

「女性とは」「恋愛とは」とまことしやかに語られてきた既存のレッテルを、物語はやがて丁寧にはがしていく。〈発酵と腐敗は紙一重〉とは、微生物の働きにより人間に有効な物質が作られれば発酵、有害であれば腐敗とされる、パン作りを生業にする虎之介の呟きだが、これはもちろん恋愛感情が人間に及ぼす作用についての比喩でもある。虎之介と交わりながら、不思議と女たちはそれぞれに解き放たれ、「腐敗」の先へ行こうとする。そのさまが妙に清々しい。

 ときめきとは恋のためだけにあるわけではないと、恋によって気づかされる。そんな女たちの欲望と連帯をありのままに描いた本作は、間違いなく類まれな「恋愛小説」なのだ。

 

あわせて読みたい本

多田尋子小説集 対応

『多田尋子小説集 体温』
多田尋子
書肆汽水域

 

 男女雇用機会均等法制定の一九八五年にデビューした著者の小説集が復刊。物語に描かれる男女の待遇の違いが今も根強く残ることを痛感しつつ、「女性として生きる」とはどういうことかを、三つの作品が時をこえ語りかけてくる。

 

おすすめの小学館文庫

希望という名のアナログ日記

『希望という名のアナログ日記』
角田光代
小学館文庫

 直木賞作家の十年間を垣間見るエッセイ集。書くことや走ること、旅の景色から数々の好きなものまで、著者がいかに言葉や物事と、誠実に向き合っているかを感じさせる。この本の存在こそが、わたしたちに希望の形をまるごと見せてくれる。

(2022年3月4日)

『残月記』小田雅久仁/著▷「2022年本屋大賞」ノミネート作を担当編集者が全力PR
◎編集者コラム◎ 『パンダモニウム!』ジェイムズ・グールド゠ボーン 訳/関根光宏