週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.24 三省堂書店成城店 大塚真祐子さん


鴨川ランナー

『鴨川ランナー』
グレゴリー・ケズナジャット
講談社

 日本語を学習し、職を得て来日する米国人青年の京都での暮らしを描く。第二回京都文学賞を満場一致で受賞した中篇は、日本語を母語としない著者によって書かれた。

 この物語に用いられているのが「きみ」という二人称であることを、この本をはじめてひらくだれもが冒頭で理解し、同時にこの人称に、物語をつらぬく芯のようなものがあると直感する。その予感は外れない。「きみ」を「きみ」と呼ぶ存在については明示されないが、ページを繰るうちに読み手としての自分が、語り手のまなざしに同化することを自然と受け入れている。

「きみ」という二人称は、あらかじめ対象との距離を内包している。それらはさまざまな姿でこの物語を形づくる。

 オマモリが英語でアミュレットであると解説されるとき、何かが失われると「きみ」は感じ、しかしその思いを伝える言葉を自分が持ち合わせていないと気づく。

〈経験したことのない感覚だ。地元では、きみがもつ言葉は周りの物事に常に密着していた。たとえ知識に穴があっても、その穴なるものを説明する言葉が自分にあった気がする。が、この街で見たものは母語にあった様々な境界線に抵抗する。〉

 どの言葉にも意味があり、意味を理解することで自分を世界に結びつける。その作業が不可能な異国で、「きみ」は知識で理解を補おうとせず、まずは経験を素直に受け入れることを選ぶ。感覚や体験と、それを表現する言葉との本質的なあわいが端正に描かれたこの一連は、今作の核と言っていい。

 やがてこの社会に順応しようといくら勉強に励んでも、一個人としてではなく、異国の表象として受容されるにすぎないという現実が、「きみ」の前に立ちはだかる。そのとき「きみ」が手を伸ばしたのは、谷崎潤一郎であり、小説の世界だった。

〈小説を読んでいるときみは自由にカメラアイとして文字の世界を彷徨できる。日常生活では、きみが見る表情も、きみが聞く言葉も、あらゆる場できみ自身の存在によって歪められてしまう。(略)だが文字の世界だと、そのような異質性は綺麗に取り除かれ、自分がいない日本語の世界を楽しめる。〉

 このとき、読み手として「きみ」を見つめていたわたしが「きみ」そのものになる。海外で生活した経験もなく、他言語を操ることもできないが、「きみ」が出会った小説の世界が、自分にとっての今作との出会いに重なったとき、わたしの目の前にはゆるやかな鴨川の水面がひらけ、朝の淡い日差しに視界をにじませながら、いままさに走り出そうと呼吸をととのえている。

 

あわせて読みたい本

エクソフォニー 母語の外へ出る旅

『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』
多和田葉子
岩波現代文庫

 母語の外に出た状態=エクソフォニーをめぐり、日本語を母語としながらドイツ語でも創作する作家多和田葉子が、言語と文学の本質的な関係を探る。日本語を母語とせず日本語で小説を書くリービ英雄の解説とあわせ、今作の格好の副読本。

 

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扉のかたちをした闇

『扉のかたちをした闇』
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小学館文庫

 作家・江國香織と作詞家・森雪之丞による、詩のかたちをした言葉の交歓。ときには受けとめるように、ときには重なるように、ときにはすれちがうように書かれた言葉の結晶が、さまざまな角度で光を変えるプリズムのように心に残る。

(2022年1月7日)

◎編集者コラム◎ 『ぷくぷく』森沢明夫
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