錦見映理子『恋愛の発酵と腐敗について』
恋愛というレッテル
三十代まで、「恋」とは男女の性愛のことだと思っていた。
異性と恋をして結婚し、子どもを産み育てるという「正しい道」を歩まねば、幸せになれないと思い込んでいた。みんなが迷わずにまっすぐその道を進んでいるように見えて、ひとり取り残されたように苦しかった三十代を終え、四十代半ばで小説を書くようになってから、「いつか恋愛小説を書いてみたいな」とちょうど一回り若い友達に話すと、彼女は言った。
「恋愛小説なんて、全然興味ないけど」
え、私が二十代の頃はみんな「恋愛小説」と呼ばれるものを読んでいたよ。江國香織さんとか吉本ばななさんとか、ずっと愛読してきたから、いつか私にもああいうのが書けたらって思ってるんだけど……とうろたえながら返す私に、彼女は「それなら私もたまに読むよ。全部は知らないけど、江國さんの小説は出てくる女の人が孤独で潔いから好き。ばななさんの本は落ち込んで何もできないときでも読めるから常備薬として部屋にキープしてる。だけど、なんでもそうやってすぐ『恋愛』ってレッテル貼るよね世間は。特に女性の作るものに。やだなー」と言った。ごめん、と私は謝りながら、彼女に近い年の女と、自分と同じくらいの中年の女が、同じ人に恋をする小説を書けないかな、とぼんやり思ったのを覚えている。
それから数年して、『酵母から考えるパンづくり』という本を読み、「発酵とは、酵母が活動することで起こる一連の変化、現象です」という一文に出会った。これはまるで恋愛のことのようではないか。発酵の見極めについても、まるで恋がうまくいったりいかなかったりするさまざまなケースについて書いてあるように感じた。ほんの少しの条件の違いで、パンの生地はうまく発酵したり、腐ったりする。
組み合わせやタイミングによって、ある人とは幸福になり、別の人とは不幸になったりするのはなぜか。恋愛と呼ばれる「一連の変化、現象」を、パンのレシピのように一つずつ描ければ、人を好きになったときに何が起きるのかが少しはわかるかもしれない。
行く末を何も決めずに書き始めた。もう恋をしたくない29歳の万里絵と、初めての恋にのめりこんでいく43歳の早苗。くだんの女友達がもしも読んでくれたら、どちらにも自分は全然似ていないし共感もできない、と言う気がする。だけど、どちらの女も孤独で、何かと戦っているところは、彼女に少しだけ似ていると密かに思っている。
錦見映理子(にしきみ・えりこ)
東京都出身。小説家・歌人。『リトルガールズ』で第34回太宰治賞を受賞。歌集に『ガーデニア・ガーデン』、エッセイ集に『めくるめく短歌たち』。
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『恋愛の発酵と腐敗について』
著/錦見映理子