週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.57 丸善お茶の水店 沢田史郎さん
『予備校のいちばん長い日』
向井湘吾 企画・監修/西澤あおい
小学館文庫
1998年3月13日。東大の後期試験の数学で、受験史に残る難問が出た。その難易度といったら、試験当日に解答速報を出すのが通例となっている一流大手予備校でさえ、一日では解けなかったというレベル。当然、完答できた受験生はゼロ。
という設定は、実は本当にあった話だそうだ。その伝説の難問事件に材を取り、多彩なキャラクターとユーモラスな会話を駆使して、数学のド素人でもついていけるレベルにまで解法を噛み砕き、予備校講師の意地とプライド、そして情熱の物語に仕立てたのがこの作品。
いやぁ面白い! 数式なんか見るのも嫌という文系頭の僕でさえ、抵抗無く一気に読了。勿論、完全に理解出来た筈もないんだが、「何となく分かったような気がする」程度で充分に物語を楽しめる。だから、「東大受験の数学の話? んなもん分かるか」という先入観は捨てて欲しい。
舞台となる弱小予備校・七徳塾は、東大コースを設置しながら二年連続で東大合格者ゼロ。ならばいっそ東大コースの代わりに金持ち相手の医学部コースを新設した方が、経営的には安定する。そう計算した社長が、東大コースの廃止を宣言した。
これに猛反発したのが、数学科のエース講師、言問さくら(コトトイ サクラ)。
《男でも女でも、親が高学歴高収入でなくても、中高一貫の生徒でなくても、努力すれば東大に行けるのだと。そう証明するために教壇に立ってきた》。
それが彼女の、講師としての気概であり、モチベーションであり、使命感だった。その東大コースが廃止とは……。
ならば今回の東大後期の超難問を、どんな老舗予備校よりも、どんな大手予備校よりも早く正確に解き、速報レースで1位を獲る。そうして、東大受験に七徳塾あり! と天下に知らしめることが出来たら、東大コースを存続して下さい! 的な要望を建議して、「もしそんなことが可能であれば、廃止は再検討する」と、社長の妥協を取り付ける。
斯くして幕を開けた〝予備校のいちばん長い日〟……。
例えばミステリー小説だったら、犯人はコイツじゃないかとか、ここがアリバイの穴ではないかとか、自分なりの解答を考えながら読み進むであろう。ところがこの作品の場合、受験史に残る難問が相手である。当然、〝自分なりの解答〟なんか逆さに振っても出て来やしない。それどころか、問題文の意味を把握することがもう困難。わざと解り難く書いたとしか思えない。にもかかわらず、先が気になって、いやはやページをめくる手が止まらない。何なんだ、この楽しさは!?
一つには、魅力的なキャラクター。主人公は元より、上司やら同僚やら塾生やらが、漫画チックとリアリティの絶妙なブレンド加減で動き回る。《英語のリスニングあるじゃないっすか。でも俺、聴き取れる気がしないんで。音声が流れてる最中に、それを無視して長文を読むコツとか、ありませんか》なんて質問に来る受講生とか、マジでいそう(笑)。
2つ目に、不眠不休で問題と向き合うさくらが、七転び八起きで正解に近づいていく、その手応え。それを一緒に味わえること。この点、数学が分からなくても話の筋は追える、という翻訳をした著者と監修者、そして担当編集の労を、躊躇なく称えたい。
そして何よりも、さくらを応援する他教科の同僚たち! 興を削ぐので詳述は控えるが、解答で役に立てないなら後方支援だとばかりに、孤軍奮闘するさくらを意外な方向から盛り立てる彼らの気概!
号泣! とまでは言わない。けど、確実にジワッと来る何かがある。初めて読む作家だが、今年読んだ中でも指折りの傑作だった。
あわせて読みたい本
『受験必要論 人生の基礎は受験で作り得る』
林 修
集英社文庫
受験が出来るということは贅沢で恵まれたこと。真剣に取り組めないなら、受験などしない方がいい。林先生の厳しくも温かいエールに、学生は勿論、受験など今は昔の大人でさえも、ハッと目が覚める思いを味わう筈。
おすすめの小学館文庫
『ひなた弁当』
山本甲士
小学館文庫
まっすぐ前だけ見つめて走り続けて、気付いてみたら崖っぷち。そんな時はケセラセラ。気分転換によそ見して、散歩のつもりで回り道。ふとしたところに生きるヒントは転がっている。自然と顔が上向く中年再起小説。