ロジカルに考えるための非論理的経験とは【大人のための現代文・後編】
ビジネスマンの素養として語られることも多い「ロジカルシンキング」は、一朝一夕に身につけられるものではありません。その習得のコツは、中学・高校で習った現代文の授業に隠されていました。
東京大学の網谷壮介さんが、現代文の読み方をレクチャーする【大人のための現代文講座】!
前回(「ツッコミとしての文章読解術」)に続く後編では、「ロジカルシンキング(=論理的思考)」という大人にとっても大切な思考術について、現代文の読み方からアプローチします。
文中の難関大学の過去問と合わせて、「論理的に文章を読み解く」とはどういうことか、考えてみましょう。
〔以下、網谷さん寄稿文〕
前回は、テクストをボケ、読解をツッコミになぞらえて、創造的なツッコミをいれていく読書術の可能性を示唆しておいた。今回は、そのような非論理的なことなどしたくない、関西人のお笑い好きはどうにかならないのかなどと憤慨された方のために、より論理的な読解・思考のあり方を、入試現代文を参考にして考えてみたい。
ただ、またしても残念ながら、この記事でお伝えするのは論理的読解や思考のノウハウそのものではない。むしろ、ロジカルに考え、読み書きするということは、ある種のイロジカル(=非論理的)な経験をくぐらなければ可能ではない、ということをお伝えしたいのだ。
理論編:予備校的な読解テクをおさらいしよう
さて、みなさんは大学受験の現代文にどのような印象を持っているだろうか。「現代文は勉強してどうこうなるものではない」「センター試験の選択肢はフィーリング・直観で選ぶものだ」……多くの人がこのように応じるのではないか。さらに言えば、学校の先生がすぐ口に出す「文脈から分かる」という言葉に、「そんなもん分かるか」とつっこんだ人も多いだろう。
予備校教師が現代文について語るときに、枕詞として語るのは、おおよそ以上のようなことである。彼らは続けてこう言う――「しかしね、現代文は直観やフィーリングではなく、また文脈から分かるのでもなく、論理的に読むことができれば点数が取れるんだ。学校の先生が教えてくれない論理的読解のテクニックを教えてあげよう!」
こうした口上は受験生のみならず、大人たちにも受けがいい。実際、デキる大人のための必須条件であるかのように喧伝される「ロジカル・シンキング」という能力もまた、こうした口上のもとで語られることがある。論理的読解のテクニック――それはつまるところ、ある種の規則を念頭に置きながら文章を丁寧に読むということにすぎない。予備校では、筆者がテクストを書く際に利用しているレトリックや論理構造を、あらかじめ一般的な規則の形で教えておくのである。その規則を意識しながら読みさえすればいい、考えさえすればいい、というわけだ。
論理的読解のための「三つの規則」
さて、また問題を解いてもらおうと思うが、今回は注意すべき3つの規則をあらかじめご教授しておこうと思う。
第一の規則は、対比の関係に注意すること。筆者はしばしば自分が論じたいものとは対照的なものを持ち出し、両者を比較しながら議論を進めていく。例えば、「労働」と「余暇」のような異なる性質のものや、「一般論」と「筆者の見解」、「過去」と「現在」、「日本」と「西洋」といった場合もある。第二に、指示語に注意すること。指示語が何を指しているのかを考えながら読まないと論旨を見失ってしまう。第三に、出題者は何を意図してそこに傍線を引いたのか、考えること。わざわざ問題にするからには、何がしかの注意すべき表現や論理があるということなのである。
以上が、今回注意すべき規則である。これらの規則を踏まえれば、間違った選択肢を選ぶはずがない――と、煽っておこう。
実践編:難関大の現代文に挑戦
〔…〕いずれの文化圏でも、前近代の人びとは、生まれやしきたり、世襲などの伝統的な制度や規範、慣習に縛られていて、個人のあり方もかなりの程度は規定されていた。〔…〕だが近代になると、個人にとっての〈私〉は、生まれつき決められたものから、自分の手で作り出すものへと変わっていく。個人のアイデンティティは、生得的なものから獲得的なものになった。個人はそれぞれ自分の手で、自らの個性や人格、イメージやアイデンティティをつくり、それを他人に向けて自己表現として示し、維持しようとするようになった。このとき個人の自己アイデンティティは、その個人自身の自由裁量の問題、あるいはプライベートな問題となる。
設問: 下線部はどういうことか、最も適切なものを選べ。〔設問は一部省略した〕
① 近代人のアイデンティティは、自己の秘密を内面に隠すことによってつくられるということ。
② 他人に対して自分をどのような人間として見せるかは、自分のどの部分を明かすかで決まるということ。
③ 自己アイデンティティは秘密によって作られるが、その秘密は社会からの影響を受けることはないということ。
(2011年度早稲田大学教育学部国語第一問、坂本俊生『ポスト・プライバシー』より)
答えは決まっただろうか。まず目につくのは、前近代と近代のアイデンティティの対比である。前近代では伝統や慣習によって個人のアイデンティティが決まっていた。それに対して、近代ではアイデンティティは「生まれつき決められたもの」から「自分の手で作り出すもの」、「生得的」なものから「獲得的」なものへと変わる。
さて、問題の傍線部であるが、まず「このとき」という指示語がある。「このとき」とはいつか。それは前文で言われている、個人が自分で「アイデンティティをつくり、それを他人に向けて自己表現として示し、維持しようとする」とき、つまり「近代」である。さらに、なぜ出題者はここに傍線を引いたのか、と考えてみよう。近代のアイデンティティのあり方が「自由裁量」・「プライベート」な問題として言い換えられている。出題者が聞きたいのは、この二つの表現の意味である。自由裁量とは、自分で任意に対処可能な物事について言われる。プライベートはパブリックの反対語、「私的な」という意味である。
これを踏まえれば、前近代では伝統や慣習といった自分以外のパブリックなものからアイデンティティを押し付けられたのに対して、近代のアイデンティティは自分で任意に形成でき、それゆえにプライベートなものになったのだと分かる。以上のことを反映している選択肢を探せばいい。②がそうである。選択肢の中の「他人に対して自分をどのような人間として見せるか」という記述は、前文の「他人に対して自己表現として」という記述と一致する。この一致を通して、下線部のなかの「このとき」が意味する内容が選択肢にも反映されているのである。さらに「自分のどの部分を明かすか」という点に「自由裁量」・「プライベート」の含意が活きていると言える。
発展編:「ロジカル・シンキング」の欺瞞を超えて
正解できただろうか。読解の規則を教えてもらっていたのに間違うなんて、と責めるようなことはもちろんしない。実際、規則が示されていれば必ず正解する、などという方がおかしいのである。
確かに、巷で言われる論理的読解あるいはロジカル・シンキングというものは、直観や文脈、雰囲気に頼らず、誰でも一連の規則に従いさえすれば、文章を論理的に読んだり、物事を論理的に考えることができるという気にさせてくれる。しかし、やはりここにはいささかの欺瞞がある。というのも、論理的読解・思考のテクニックや規則を一般的に提示したとしても、なお、それらをどのように適用すればいいのか、という問題が残るからである。
これは車の運転の知識と実践が異なるのと同じである。例えば、アクセルの入れ方や、車線変更の仕方、駐車方法を知っていても、実際にそれを高速道路や車間の狭い駐車場で実践できるかは別問題である。これと同様に、論理的読解の規則を知っていたとしても、例えば論理展開の複雑さで知られる丸山真男の文章を理解できるかは分からない。ロジカル・シンキングのテクニックを知っていても、それを使って売れ行きの悪い製品をどうにかするためのプレゼンができるようになるとは限らない。
一般的な規則やテクニックと、それを適用・応用する具体的な現実の状況とのあいだには、必ず乖離があるのだ。ロジカルであるための規則を一般的に示すことはできても、それを具体的な場面でどのように適用すればいいのか、そのためのロジカルな規則は与えられていないのである。
上の問題でも、私が示した規則を意識して正解できた人もいれば、意識したのに正解できなかった人もいるだろう。すぐにロジカル・シンキングを実践できるようになる人もいれば、長く時間をかけても結局習得できない人もいるだろう。規則の適用まで含めて論理的思考・読解能力なのだとすれば、やはりそこにはある種のロジカルでない、イロジカル〔=非論理的〕なものが関与せざるをえない。
受験生のなかには、受験テクニック・マニアになってしまう人が一定数存在するが、彼らの倒錯は、規則さえ知っていればいつでもそれを適用することができると考えてしまうところにある。同様に、ロジカル・シンキング本を読んだだけでは、ロジカルにはなれない。ロジカルであるためには、実際に具体的なテクストや具体的な状況で、その規則を適用しようと自分なりに試行錯誤するという経験――まったくイロジカルな経験を積むしかないのだ。こうした経験の最初の機会を与えてくれていたのは、実は、受験現代文の問題である。「こんな勉強をしてなんになる」とうっちゃるには、それはあまりに豊かな経験の場面だったのだ。
[筆者プロフィール]
網谷壮介(あみたにそうすけ)
1987年大阪生まれ
東京大学大学院総合文化研究科博士課程
専門はイマヌエル・カントの政治思想
初出:P+D MAGAZINE(2016/03/08)