ハクマン 部屋と締切(デッドエンド)と私 第142回

「ハクマン」第142回
漫画家人生15年のうち、
9年ぐらいは、
「会社員兼漫画家」だった。

つまり、息絶える前の激しい痙攣でしかないのだが、その痙攣動作の中に「漫画の投稿をしてみる」というのも含まれていたのだ。

そして、その後も不採用を繰り返し、やっと冒頭の9年勤めた会社から採用の連絡をもらい「よろしくお願いします」と言った2日後に、漫画を投稿した編集部から電話がかかってきて、それにも「よろしくお願いします」と言ってしまったため、両方進むことも戻ることもできないアゲハ蝶になってしまっただけなのである。

デビューしてすぐにヒットでもすれば、会社はさっさと辞めていただろう。

しかし、何故かいつまでたっても、漫画1本にしても大丈夫と言い切れないまま9年の月日が経ち、ある日上司に呼び出され「何か会社とは別の経済活動を行っている件」について詰められて、その場で辞意を表明せざるを得なくなるという最悪の結末を迎えるのだが、今思えば最悪な目にあっているのは会社の方である。

ちなみに、普通会社というのは辞意を表明してから1か月程度で退職するものなのだが、私の前の人が「もう明日から来ません」と言って、引継ぎもなくエクストリーム退職をして会社が混乱状態になったことがあったため、同じ轍を踏まぬように、私の引継ぎ期間は「3か月」ほど設けられてしまった。

つまり会社中に「何か別の経済活動をしている人」であることが知れ渡った状態で3か月そこに通うことになってしまったのだが、せめてそのぐらいの罰は受けるべきだろう。むしろ出るところに出ず一身上の都合で辞めさせてくれたことに感謝している。

それに、他の社員も事情は知っているであろうから、誰一人として「カレー沢(笑)さん、これコピーしてきて」などとは言ってこなかった。

会社も人も寛大であり、そんなところに9年も居座ったことを申し訳なく思うと共に、もう1週間早く電話をかけてこなかった編集の罪は改めて重い。

しかし、正直こんなに長く漫画家を続けられるとは思っていなかったため、わざわざペンネームを考えるというのも気恥ずかしく、最初は本名でデビューしようとしていた。

しかし、よく考えれば本名の方が恥ずかしい気がして、直前でカレー沢というもっと恥ずかしいペンネームでデビューすることになるのだが、もし本名だったらもっと早く別の経済活動が会社にバレて退職することができていたかもしれないので、とにかく私のデビューに関してはこの会社にとって不運としか言いようのないことが連発されている。

つまり、会社はほぼクビになったようなものなのだが、逆にこちらの意思で辞めていたとしたら、インボイスという言葉が出始めたあたりで、やはり辞めない方が良かったのではないか、と後悔したような気がするので、逆に辞める以外の選択肢がなかったのはむしろ良かったような気がする。

つまり今売り手市場で内定をいくつももらっているような若人は、選んだ会社で上手くいかなかった時、やっぱりあっちにしとけばよかった、などの後悔が生じるということだ。

しかも数ある中から自分が選んだという自己責任まで発生してしまっている。

人生に選択肢が多いのは良いことだが、逆に選ばれるだけでなく「選ぶ能力」まで問われるということであり、この能力がないとむしろ選択肢が多いことが仇になってしまうのかもしれない。

私にとって、今の仕事は選んだというより、他のあらゆる可能性がログアウトしたあと、辛うじて退席ボタンを押し忘れた奴が残ってくれていた、という感じなので、どれだけ上手くいってなくても後悔だけはないのが救いである。

「ハクマン」第142回

(つづく)
次回更新予定日 2024-11-13

 
カレー沢薫(かれーざわ・かおる)

漫画家、エッセイスト。漫画『クレムリン』でデビュー。 エッセイ作品に『負ける技術』『ブスの本懐』(太田出版)など多数。

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