田口幹人「読書の時間 ─未来読書研究所日記─」第23回
「すべてのまちに本屋を」
本と読者の未来のために、奔走する日々を綴るエッセイ
2024年9月19日(木)、「風呂屋書店」が北海道札幌市・定山渓温泉『定山渓第一寶亭留 翠山亭』内にオープンした。少しだけお手伝いをさせていただいた関係で、オープン前に「風呂屋書店」を訪ねた。残暑が続く東京から飛行機で新千歳空港へ。そして札幌市内に移動し、すすきの駅前からバスで揺られること1時間ほどで定山渓温泉に到着する。第一声は、涼しい! だった。東京を出る時は、さすがにこの暑さで温泉は、と思っていたが、バスを降りて雨の定山渓温泉街を歩いているうちに、長時間の移動に加え、すっかり体が冷えてしまったこともあり、「本屋に行く」という目的を忘れ、「温泉に浸かりたい!」とだけ考えながら翠山亭を目指した。
翠山亭は、旅館のもつおもてなしの心とホテルのもつ快適さを併せて提供することを目指していることから、宿名を「ホテル」ではなく「寶亭留(ほてる)」と表記しているそうだ。お客様の心に寶(たから)が留(とど)まる亭(やかた)という意味である。定山渓温泉街の中心部から少し離れた場所にひっそりと佇む、隠れ家的な宿なのだが、何より細部まで行き届いた心遣いが素晴らしいのだ。
きっと、宿に入ってから宿を後にするまで、訪れた人たちがその時そのタイミングでどんな想いを抱き、どんなサービスを欲するのかを考え抜いた上で、細かいところまで配慮が行き届いたサービスを構築しているのだろう。スタッフの皆さんからも優しく声をかけていただき、寛ぎのひと時をもらうことができた。
忘れてはいけないのがやはり温泉である。定山渓温泉街に湧き出ている温泉は、無色透明でまろやかな塩辛さが特徴のナトリウム塩化物泉で、ポピュラーな泉質なのだが、入浴すると肌にこの塩分が付着し、汗の蒸発を防ぎ体の芯から温まるお湯だった。定山渓温泉の泉源は56か所あるそうだが、翠山亭は3つの源泉からお湯を引いていて、源泉かけ流しで提供しているとのことだった。
気持ちいい! 熱すぎず、ずっと入っていられるお湯だった。じんわりと体の奥底から温まり、上がってからもずっとポカポカしていた。脱衣場には、お水とアイスのサービスが! クールダウンをしながら、バニラアイスを食べ、汗が引いてきたところでここを訪れた理由を思い出し、着替えて「風呂屋書店」に向かった。
「風呂屋書店」には、〝旅〟をテーマにした知的好奇心を刺激する本がセレクトされ、並んでいた。大人向けの絵本や写真集、定山渓エリアを題材にした書籍・約2500冊が棚に収められており、ラウンジでの閲覧、そしてもちろん買うこともできる。棚の裏には3つの小部屋が用意されていて、各部屋には大きなソファが備わっており、誰にも邪魔されることなく、部屋を独り占めして読書に没頭することができる。旅行や旅館という非日常空間を味わいながら、風呂上がりの心地よい気分で本を楽しめる仕掛けだろう。「風呂屋書店」の担当者さんは文芸、とくに昭和文学が好きな方らしい。松本清張、立原正秋、水上勉、栗本薫、中上健次などの昭和の大作家による名作、話題作、お宝作品を掘り起こした小学館の「P+D BOOKS」シリーズのペーパーバックがこれほど並んでいる書店は、大型店でも珍しい。
棚から一冊抜き取り、ソファに横になってみた。僕が選んだのは、東京は大井町の一隅にある骨董屋を舞台に、男女の淡く切ない恋情と、市井の人々との心温まる日常を味わい深く描いた村松友視の名作『時代屋の女房』だった。すごく懐かしく、いつ読んだかを思い出しつつ頁をめくっていた。まさかここでこの本を手にすることになるなんて。さらには、著者による新たなあとがきが収められているのを発見し、とても嬉しい再会となった。偶然の出合いの良さとは、そういうことなのだろう。
話は逸れるが、P+D BOOKS について少し触れておきたい。
昭和文学の作家たちの作品が入手困難になっている中、「P(=ペーパーバック)」と「D(=デジタル)」の2種類の形態で提供するという試みである。取り扱い書店が限られていることから、僕はあまり接点がなかったのだが、「風呂屋書店」で P+D BOOKS の棚を見ていて、すごく面白い試みだな、と感じた。
さらに、ペーパーバックを読んでいて思うことがあった。
紙版は軽量かつ大きな文字で読みやすいのが特長で、文庫本よりやや大きなB6判で、欧米のペーパーバックと同様のリーズナブルな紙質と簡素な装丁。価格帯は税抜き600~円と文庫本と同等の手頃な価格帯になっている。
前回、昨今の状況下、書籍の価格が上昇していることや、出版される書籍の品切・重版未定と判断される期間が短くなっていることに触れたのだが、まさに、読みたい時にペーパーバック版で気軽に買えて読めるようになったらいいのに、と考えてしまう。
息の長い情報伝達の媒体である本の可能性に寄り添った出版のカタチは、今の技術ならできるのではないだろうか。
話を「風呂屋書店」に戻そう。
スタッフの方が、定山渓第一寶亭留 翠山亭の道路のはす向かいに佇むシャッターが下ろされた建物は、かつて書店だったと教えてくれた。子どもの頃はいつも通っていたそうだが、その書店が閉店してから、定山渓温泉には書店がなかったそうだ。今回誕生した「風呂屋書店」は、定山渓温泉では唯一の書店ということになる。
また、お話しした別のスタッフの方は、とにかく唯一の趣味が読書で家には大量の本があり、本を読むだけの部屋まで用意するほどの本好きの方だった。「風呂屋書店」の担当ではないそうだが、自分が働く空間に本があり、サービスのひとつに読書体験を加えることができたことをすごく喜んでいた。自分が読めないのはちょっと悔しいけど、と話していた時の笑顔が素敵だった。
一言で本との出合いというのは簡単だが、ロケーションと読書体験をお届けしたいという「風呂屋書店」の試みはすごく魅力的だった。宿泊者以外も利用可能(有料)で、旅先で体験する思いがけない本との出合いや、お風呂のようにゆっくりと読書に浸る、贅沢な時間を堪能することができるだろう。
書籍は定山渓第一寶亭留 翠山亭の2階にある書店ゾーン「風呂屋書店」や隣接するラウンジ「一(いち)」(宿泊者限定) で、購入前でも自由に読むことができ、施設内ではセルフのフリードリンクを提供している。
昔から作家が作品を生み出す場として宿があったように、本と宿は切っても切れない関係である。書店が減っている昨今、宿は、本と触れ合う大切な空間になり得る。そして、本来の書店の魅力、つまり「本との偶然の出合い」を生み出す空間ともなるのではないか。ただ本が読めるだけではなく、本を買えて、売場に変化があることで、リピーターのお客様に〝いつも違う特別な場所〟という感覚を伝えたい、と社長の布村英俊さんがお話しされていた。
布村さんは、「風呂屋書店」だけではなく、今後も様々な形で、お客様や地域住民が本に出合える取り組みを企画検討しているそうだ。次回はどんな出合いの場が生まれるのか楽しみである。
今回の「風呂屋書店」は、企画・運営は大日本印刷(DNP)が代行しているという。宿泊施設等の〝書店業以外の事業者〟に対し、従来のサービスに〝本〟を組み込んで利用者の体験価値を高めるサービスの一環として「風呂屋書店」の開業を支援している。次はどんな書店が誕生するのだろうか。
日本中に、本と生活者が出合う場所が増えてほしい。
田口幹人(たぐち・みきと)
1973年岩手県生まれ。盛岡市の「第一書店」勤務を経て、実家の「まりや書店」を継ぐ。同店を閉じた後、盛岡市の「さわや書店」に入社、同社フェザン店統括店長に。地域の中にいかに本を根づかせるかをテーマに活動し話題となる。2019年に退社、合同会社 未来読書研究所の代表に。楽天ブックスネットワークの提供する少部数卸売サービス「Foyer」を手掛ける。著書に『まちの本屋』(ポプラ社)など。