ハクマン 部屋と締切(デッドエンド)と私 第144回

「ハクマン」第144回
私が漫画家を志したきっかけは、
小学2年生の時に読んだ
さくらももこ先生のエッセイ漫画である。

当時小学生だった私はここに投稿して、ドラクエ4コマ作家になりたかったし、はじめて「投稿」というアクションを起こそうとしたのは、ドラクエ4コマだったような気がする。

しかし、田舎の小学生にとって漫画の投稿は「面白い漫画を描く」以前に壁が多すぎた。

吉幾三の「レーザーディスクは何者だ」部分を「スクリーントーン」に置き換えていた、昭和生まれの漫画描きたい田舎キッズは私だけではないだろう。

田舎者にとってスクリーントーンは憧れを超えてもはや都市伝説だが、正直トーンがなくても漫画は描けるし、トーンなしでドラクエ4コマ漫画家デビューしたT先生と、Y県出身なのにデビューしたA先生は希望の星であった。

だが、私はそれ以前の「ケント紙」の段階で詰んでいたのだ。今まで「画用紙」で生きて来た子どもに、ケント・デリカット以外のケントは敷居が高すぎた。

おそらく「画用紙でもいい、ただしボールペン、てめーはダメだ」という募集要項だったとは思うが、当時から何でも形から入ろうとするタイプだったので、ケント紙でなければダメなような気がしたのである。

よって、ケント紙を手に入れるため、近所の個人経営の文房具屋に行き、30分ぐらい店内をうろうろし、そろそろ「ポケットの中身を見せろ」と言われかねなくなったところで、意を決して店主の中年女性に「ケント紙はありますか?」と尋ねたのである。

するとその返す刀で女性は「サイズは?」と尋ねてきたため、私の冒険は終わったし、世界は闇に包まれた。

紙にはB4とかA3などサイズが存在するのだが、当然その当時そのような知識はなかった。

今思えば、黙りこくる子どもに対し、見本を見せるなどの助け舟を一切出さず、こちらがそのまま無言で帰るまで「無言」を貫き通した店主もどうかと思うが、私も「年の割に異常に気が利かず子どもすらフォローできない中年女性」になってしまったので人のことは言えない。

その後もボールペン以外のペンがない、15センチ以上の定規がないなどの万難が襲ってきて、結局デジタルで漫画が描ける時代が来るまで私が漫画の投稿をするということもなかった。

漫画家になる難易度は今も昔も大して変わらないのかもしれないが「漫画を描くツールの入手難易度」はかなり下がったのではないかと思う。

結局私はドラクエ4コマ作家にはなれなかったのだが、今思えば私はドラクエ4コマではなく「楽屋裏」と言って、作者が自ら出てきて自分語りをするあとがきページを書きたかったのかもしれない。

  

そんな私が30年後「単行本のあとがきを2ページ描け」という要請に、死ぬほど渋面をする大人になるとは夢にも思わなかった。

「ハクマン」第144回

(つづく)
次回更新予定日 2024-12-11

 
カレー沢薫(かれーざわ・かおる)

漫画家、エッセイスト。漫画『クレムリン』でデビュー。 エッセイ作品に『負ける技術』『ブスの本懐』(太田出版)など多数。

藤原麻里菜『不器用のかたち』
最所篤子『ジェリコの製本職人』