ハクマン 部屋と締切(デッドエンド)と私 第18回
サザエさんやドラえもん方式に憧れている。
だが、新しい話を考えるのは苦痛だ。
先日、漫画の連載が2本終わった。
このコラムは「漫画家コラム」という体裁だが、もし漫画の連載がゼロになったらどうするつもりなのだろう。
「自称漫画家」という、容疑者にしか使われないような肩書きを使うことになるのだろうか。
だが、幸いにもその間に新しい連載が1つ始まったし、他の新連載も準備中だ。
しかし前にも言ったが作家の言う「準備中」は「明日から考える」も含まれているので、始まるその瞬間まで真に受けてはいけない。
このように作家はクッキングパパ的なものを生み出さない限りは、連載を始め、終わり、また始めの繰り返し、または始まらずに自称漫画家のカレー沢薫容疑者(36)になるかである。
私は、クッキングパパ的なものや、作者が死んでも続く、サザエさんやドラえもん方式に憧れている方である。
だが、死後評価されるゴッホ方式、てめえはダメだ。
しかし作家の中には、自分の想定したストーリーを描き切ったら、人気があっても引き延ばしをせずに終わって、新しい物を考えたい、という人もいるという。
ちなみに私は自分の人生にはよく言うのだが、漫画に関しては自分から「終わらせたい」と言ったことはない。
終われと言われない限りは惰性で続ける覚悟をしているのだが、未だかつてその覚悟を試されたことがない。
何故なら私は、新しいことを考えるのが苦痛なのだ。
作家の中には、新しい話を考えることにワクワク感を感じる人もいるのかもしれないが、私にはそれがない。
もちろん絵空事を考えるのは好きである。
だが、絵空が上空を高く舞うほどに「これ、絵が上手い他人に描かせてえな」と思うのだ。
つまり「俺が読みたい話」はいくらでも考えられるが「自分が描きたい話」となると「舞台は北極で主人公はシロクマ、セイウチは絶滅、シロカモメはギリ存在して良い」みたいなことしか思いつかないし、大体「自分は描きたくない」という結論に達する。
俺が読みたい話を自分で描けば良いじゃないか、と思われるかもしれないが、それは違う。
自分が絵を描く、というのは、常に小雪を想定してハイキングウオーキングになる、ということなのである。
「服が素敵でも着るのは俺」という絶望感だ。
それよりも「モデルが着てるのを俺は見てるだけ」の方が良いに決まっている。