◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第7回 前編
二十一
江戸は七月に入ってからも雨がちの肌寒い日が続き、この天明五年(一七八五)の秋も豊かなみのりはおよそ期待できそうになかった。逆に西日本では六月に雨降らず、旱魃(かんばつ)によって稲をはじめ作物に甚大な被害が出たとの話が流れてきた。
つくつく法師の声がしきりに響く七月二十日、御徒町(おかちまち)の古書肆(こしょし)長田屋が、加瀬屋伝次郎(かせやでんじろう)を訪ねて芝(しば)宇田川町(うだがわちょう)にやって来た。
長年古書肆を営む初老の小柄な男はやたらと腰が低く、一見どこにでもいる小心の小商人に見えるが、なかなかの目利きで行動力にも富み、客が望むものを必ずどこからか探し出してきた。
「十巻からなるすべてをそろえましてからとも思いましたが、加瀬屋様が以前お運びくださった機会にご注文くださいました北方の地図が入った巻が手に入りましたので、手持ちの分をひとまずお持ちいたしました次第です」と長田屋はいつものようにひどく恐縮して言った。常のごとく月代(さかやき)も髭(ひげ)もきれいにあたり、薄鼠(うすねず)の小袖に黒紗の羽織を打ち掛けていた。わずかに襟元からのぞいた下着の白も、長歩きの後ゆえ生えぎわから噴き出る汗を折り畳んだ手拭いで押さえる仕ぐさも、一介の小商人とは思われぬ品を感じさせた。
風呂敷と油紙で二重に包み長田屋が携えてきた四巻は、松前廣長(まつまえひろなが)の『松前志(まつまえし)』だった。四年前に藩主親族の手によって上梓されたその第二巻には、簡略な地図が三枚載っていた。とくに伝次郎の目をひいたのは三枚目の地図で、日本より北の世界を描いたものだった。
右上の大陸に「北亜墨利加(きたアメリカ)」、海を挟んで左には「魯細亜(ロシア)」があり「ヲロシイスカヤ」と表わされていた。「日本」と表わされた本州の北に「松前」と書かれて蝦夷(えぞ)本島があり、その北西に「サハリン」「カラフト」の名が二つ示された細長い島が描かれていた。蝦夷本島の北端から北東に連なる列島(千島)が示され、その北に「カミシヤツカ(カムチャッカ)」の半島、そしてその左の大陸沿海には「ヲホーツカ(オホーツク)」の港も明記されていた。朝鮮半島は「コーレイヤ」、中国は「支那」と「キタイスカヤ」の二つ名で示され、その東隣に「マンジュ(満洲)」の文字が見えた。日本と北亜墨利加の間にある大海は「大東洋」となっていた。
その大東洋の北海には、点線で「リンカと云う人通りし路」「チリコフと云う人通りし路」の書き込みがなされ彼ら二名による航跡が示されていた。同じ点線なのでどちらの人物なのかわからぬものの、リンカとチリコフのいずれかがオホーツク港から南下して蝦夷本島の東南に渡来したことがはっきりと示されていた。カムチャッカを経由してオホーツクから蝦夷島に来たのだから恐らく二人ともロシア人だろうと思われた。ロシア人は、北アメリカとカムチャッカ、蝦夷本島にいたる海域を縦横に航行していることがわかった。簡略な図ではあったが、蝦夷島以北の地理関係をはっきりと示したものを伝次郎は初めて目にした。
そのほかに『松前志』へ挿入された二枚、『古図大略』と、松前廣長自身が描いた『愚考新図大略(ぐこうしんずだいりゃく)』では、蝦夷本島をイシカリ(石狩)で二つに分け二島として描いていた。『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』をはじめ、これまで伝次郎が目にした蝦夷本島はいずれも一つ島だった。
伝次郎は三枚目の地図を示して「この図だけでもたいへん有り難い」と言った。値をきいたところ、長田屋は「そろいではございませんので、四巻五両でいかがでございましょう」と答えた。
長田屋は、ただ店にいて書籍を持ち込んで来る客を待っているだけではなく、時節ごとに各地でひっそりと開かれる古書市に出向き、あるいは築いてきた客筋を訪ねて客の欲しがる古書を探し出す。その手間もふくめて六両を渡した。