ハクマン 部屋と締切(デッドエンド)と私 第22回
新しい物をインプットするしかない。
もしくはネタという名の事件を起こすしかないのだ。
エッセイというのは「婚活」や「子育て」など目標があったり、自分の特徴的パーソナリティをテーマにしたものが多い。
それに関して言うと私は目標も個性もない虚無である。
そういう虚無作家は、おもしろい場所に行ったり、個性的な人間に会ったりと、足を使ってネタを集める場合もある。
その点でいうと、私はひきこもりだし、個性的な人間は怖いので目もあわせたくない。
そういう人間がエッセイをやろうと思ったら、家から出ずに自らネタという名の事件を起こすしかないのだ。
もちろん自宅を爆破したり、人質をとって立てこもるわけではない。
それだと出版物が全部獄中手記になってしまう。
それに収監エッセイというのもすでに目新しいものでもない。
このように「懲役を食らってもそれを描く」というのが作家の業の深いところである。
だが、それも「反省してない」というわけではない。
いつもネタに困っているので書くことがあれば「MOTTAINAI精神」でつい書いてしまうだけなのだ、ただのエコである。
つまり、事件を起こすのではなく、己の部屋が汚ないことを「これは事件だ…」「ペロっ!床が腐っている」など、無理やり事件性を持たせて2000字引っ張るのだ。
ちなみに、私の部屋の床が腐っているのは事実だ。これは常人からすると本当に事件なのかもしれない。
しかし、実はこの「どうでもいいことを事件にしているエッセイスト」が一番多いのではないだろうか。
人間そんなにおもしろい事ばかりに遭遇しない。
この漫画家エッセイも、誇張無しの事実だけで2500字書こうと思ったら、パソコンの電源を入れれば爆発、ペンを持てば複雑骨折、アシスタントはジョーカーとペニー・ワイズじゃないと到底無理である。
唯一誇張なしでおもしろいことと言えば、担当が全員サイコパスなことぐらいだ。
ただ自分にとってはあまりおもしろいことではない。