◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第9回 前編
幕府普請役配下の徳内は千島列島を目指し──
二十八
天明六年(一七八六)正月二十二日昼、湯島天神門前から出た火は、日付の替わる寅刻(午前四時)直前まで鎮まらず、日本橋より深川までの一帯を焼く大火となった。
翌二十三日の昼には芝西久保紙屋町より出火、八幡前切通しから四ツ辻、土器町(かわらけまち)、赤羽橋まで、幅三町(約三百三十メートル)余、長さおおよそ十町(約千百メートル)を焼き、暮れ六ツ(午後六時)頃に鎮火をみた。
同月二十七日、明け六ツ(午前六時)、本町二丁目、革屋町は町年寄の樽屋(たるや)与左衛門裏から出火し、町役所を全焼して室町まで、おおよそ幅二十間(約三十六メートル)、長さ三十間(約五十四メートル)に渡って類焼した。
同日昼、本所四ツ目から出た火は室町までにおよんだ。夜五ツ(午後八時)頃には、小石川通り雉子橋(きじばし)内の御舂屋(おつきや)が全焼することになった。
連日雨雪降らず、夜昼なく強い北西風が吹き荒れ、半鐘の音がしない日はなかった。折も折、信州無宿の長吉という科人(とがにん)が捕えられ、死刑に処されたとの報が流れた。長吉は、正月二十二日の大火で小伝馬町牢屋敷から解き放ちとなったものの、帰牢せぬまま七軒の押し込み強盗を働いていたという。
この時節は毎年半鐘の音に神経をとがらせたものだったが、これほど江戸市中が騒然となったことは近年なかった。江戸の町衆は稼業どころでなく、もっぱら土蔵の目塗(めぬ)りや背負い葛籠(つづら)の用意に追われ、放火と強盗の噂に夜もおちおち寝てはいられないことになった。政治向きばかりか治安に対する不信も強まり、町衆は身の置き場もない思いに追い立てられていた。
新年早々ろくな話のないなかで、小堀和泉守政方(こぼりいずみのかみまさみち)が伏見奉行を罷免された話題は、世直しの響きをともなって広まった。
小堀政方は、茶人大名として知られた小堀遠州(えんしゅう)の末孫だが、安永七年(一七七八)の伏見奉行就任以来、民を虐げることおびただしき悪政を重ねていた。民からの訴状を受け取り審議すべき伏見奉行が諸悪の張本人ではどうにもならない。伏見の裕福な町人、文殊九助(もんじゅくすけ)は江戸に下り、自らの身を捨てて寺社奉行への越訴(おつそ)を決行した。九助は越訴の罪によって投獄されたものの、その訴状が松平越中守定信に届いたという。
松平定信は前年十二月に溜間(たまりのま)詰めとなったばかりだった。定信は、早速小堀政方を江戸に召還して厳しく取り調べ、悪政を暴いて罷免に追い込んだと伝えられた。小堀政方は、遊蕩のあげくに借財を重ね、伏見の町人や百姓衆から金十二万三千両もの徴収を目論んだ。主が主ならばその家臣も家臣で、婦女の掠奪(りゃくだつ)から罪のない町人の殺害までをやり、さながら奉行所が盗賊団詰め所に早変わりしたようなものだった。これほどの悪党の頭がなぜ伏見奉行の要職にこぎ着けたかといえば、田沼意次の妾と小堀の妾が姉妹の関係だったという。確かにありそうな話だった。
諸悪の根源たる田沼意次の一日も早い退陣を願い、田沼と一派をなす悪徳無能の山師どもはことごとく粛清されるべきだとの声が江戸市中に満ちていた。小堀政方の罷免は快哉の叫びをともなって江戸市中に広まった。