滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ 第7話 カゲロウの口②
摂食することもなく、そのまま死んでいく。
カゲロウは何のために生きるのだろうか。
しょっちゅう見かける、多発性硬化症にかかっているらしい女性は、電動椅子でどこへでもひとりで行き、顔見知りがいると、ろくに話もできないのに、話しかけに行く。そして、なかなか動かない口を一生懸命動かし、よだれをたらしながら一生懸命話す。人々は、だから、一生懸命耳を傾ける。1度、イタリアンのデリで、彼女がひとりでピザを食べているのを見たことがある。体がいうことをきかないから、ピザ1枚食べるのも大変そうだったけれど、それでもひとりでどんどん外へ出ていく。
それに比べ、ミスター・アロンソンときたら、頭は冴(さ)えているし、杖(つえ)を使いはしても自力で歩けるのだから、もっと外へ出て、もっと人付き合いすれば、もっと毎日が楽しくなると思う。この、電動椅子の女性のことを話したこともあるのだけれど、ミスター・アロンソンにとっては、彼女の人生は彼女の人生、自分の人生は自分の人生なのである。まったくその通りだ。反論の余地がない。
一度、とてもいいお天気の日、ミスター・アロンソンに、外へ出て新鮮な空気を吸ってみないかと提案したことがある。それは、うららかな初夏の美しい日だった。ひと筆書きしたみたいな薄い雲が空を流れ、噴水のしぶきが日光を浴びてキラキラ光り、木漏れ日が地面にレース模様を広げていた。こんなに生に満ちた美しい日は年に何回あるかわからないというぐらい美しい日だった。だから、ちょっとベンチに腰かけて日光浴でもすれば、苦々しい気持ちで鬱屈した胸中に風穴が空いて、少しは気が晴れるかと思ったのだ。
が、目論見(もくろみ)は、もろに外れてしまった。外が明るければ明るいほど、ミスター・アロンソンは、ますますねじれ、ヘソを曲げて頑(かたく)なになっていくみたいだった。ひょっとしたら、外があまりにきれいで明るく生気に満ちていたからこそ、余計に虚(むな)しく辛く苦しくなったのかもしれない。
ベンチに腰を下ろすと、口をへの字に曲げて、ミスター・アロンソンは、苦々しそうにカゲロウの話をし始めた。
カゲロウには口がない、とミスター・アロンソンは言った。産卵すると、摂食することもなく、そのまま死んでいく。生きている時間が短いから、食べるための口なんて必要ないんだ。
ミスター・アロンソンらしい話題だった。あたりは日光が飛び散っていて、ただただ明るくて美しく、そして、明るくて美しいからこそ、カゲロウの話が余計に暗く悲惨に聞こえた。何のために生きて、何のために死ぬのか──。生気に満ちあふれた、余りに美しい光景を前に、生のはかなさ、生の不条理、無常が、にわかに色濃く、鮮烈に浮かび上がってきたのだろうと思う。
それから、ミスター・アロンソンは、苦々しそうに、「子供を作ったのは過ちだった。この世に苦痛を増やしただけだった」と言った。