滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ 特別編(小説) 三郎さんのトリロジー⑦

滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ

不思議な話だけれど、三郎さんの周りには、
表の世界とは別の時間が流れている。
「滞米こじらせ日記」、惜しまれながらの最終回!

 たった一瞬のことだった。花吹雪が収まったときには、三郎さんの存在は忘れられていた。いきなり、各々がめいめい、思い出したかのように、いろんな話を始めた。折りしもカタカタとスクーターのエンジンの音が聞こえたかと思うと、「まいどぉ~」と通る声がして、酒屋が配達に来た。銀子さんが立ち上がって、現金と引き換えにお酒を受け取ると、まずはお客さんについで回った。

 そこで、三郎さんも、ひざの上に置きっぱなしの弁当を思い出したかのように持ち上げると、首をひねり、右目でお弁当を見てから、ごはんとおかずを口に入れ、そして顔を元に戻して、もぐもぐ食べだした。

 外はあいかわらずうららかな春の日で、ピンク色に煙り、三郎さんもピンク色に染まっていた。輝くような水色の空には薄い筋雲が流れていき、遠くで子供の泣く声がし、もっと遠くでトンビの鳴く声がし、さらに遠くで電車がゴトゴト走る音がした。煙った空気が流れ、眠気を誘われて、空中を泳いでいるような気分だった。

 酔いが回って、桜の下の宴会がにぎやかになり始めた。下戸の三郎さんは無理やりお猪口(ちょこ)に1杯飲まされたあと、最後まで残しておいた花見だんごをゆっくり味わって、やっと弁当を食べ終えると、ホースで口をゆすぎ、桜の花びらの散るなか、花壇の固まった土をスコップで掘り起こしたり、睡蓮鉢のぬるぬるをブラシでこすり落としたりし始めた。

「三郎さん、そんなことしたって、来週には取り壊しが始まるんだから無駄だわよ」

 銀子さんが声をかけたが、それでも三郎さんは、庭の手入れをやめようとしなかった。桃色に染まった三郎さんは、睡蓮鉢に張った藻を手でゆっくりていねいにすくい続けた。桜の花びらがいくつか、ちらほらと三郎さんの背に舞い降りた。

 銀子さんは、あきれたかのように頭を振ると、再びお酒をついで回った。

 やがて三郎さんは酒盛りの背景に溶けていった。不思議な話だけれど、酒盛りがにぎやかに続く背景で、三郎さんの周りには、表の世界とは別の時間が流れているみたいに見えた。そして、三郎さんに合わせてゆっくり流れる時間の中を、三郎さんは、悠揚と泳いでいるみたいに見えた。

 三郎さんは、庭の掃除が終わると、社長に向かってお辞儀をし、社長が酔いが回ってふらふらした手を振ると、裏口に向かった。

 出て行く三郎さんの背に向かって、思い切って、「三郎さん、さようなら」と声をかけると、三郎さんは体ごと振り返ってお辞儀し、煙っているみたいな桜の花の陰ににじむようにして消えていった。
 

(「三郎さんのトリロジー」おわり)
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桐江キミコ(きりえ・きみこ)

米国ニューヨーク在住。上智大学卒業後、イエール大学・コロンビア大学の各大学院で学ぶ。著書に、小説集『お月さん』(小学館文庫)、エッセイ集『おしりのまつげ』(リトルモア)などがある。現在は、百年前に北米に移民した親戚と出会ったことから、日系人の本を執筆中。

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