鬼太郎だけじゃない!自伝から学ぶ、水木しげるの生き方
『ゲゲゲの鬼太郎』をはじめとする作品を手がけ、日本に「妖怪文化」を根付かせた水木しげる。多くの人に驚きを与えた独創的で型破りな生き方について、自伝をもとに紹介します。
妖怪漫画の第一人者であり、日本に「妖怪文化」を根付かせた漫画家、水木しげる。1954年に紙芝居として発表された代表作『ゲゲゲの鬼太郎』は、半世紀以上にわたって漫画化、アニメ化、映画化とさまざまな形でファンを楽しませています。アニメ化50周年を迎えた2018年には、第6期となる新シリーズのアニメが放送されるなど、今なお人気は衰えることを知りません。
水木しげるは作品だけでなく、独創的で型破りな生き方も注目されてきました。2016年に93歳で亡くなるまで、水木しげるはどのような生き方をモットーとしていたのでしょうか。今回は自伝をもとに、その自由な生き方を紹介します。
“目に見えないもの”に興味を持ったきっかけ
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水木しげる(本名:武良茂)は、1922年に大阪で生まれ、2歳のときに父親の故郷である鳥取県境港市で育ちました。自分の好きなことだけにとことん熱中し、気ままで自分本位だった水木少年。自然豊かな境港は驚きの連続で、海や山、動物や虫と目に映るものすべてが新鮮だったといいます。
そんな頃、水木は武良家にお手伝いとしてやってきた景山ふさという老婆と出会います。境港では神仏に仕える人を“のんのんさん”と呼ぶ風潮があり、かつて“拝み手”と呼ばれる祈祷師の妻だった彼女は、周囲から“のんのんばあ”と呼ばれていました。
実家から2キロばかり離れた場所にある正福寺によく連れていってもらった。本堂に地獄極楽図が飾ってある。この絵は今も飾ってある。地獄の様子と極楽の風景を類型的に描いた小さな五枚の連作である。今見てもなかなかのものだが、子ども心にはすごい迫力で迫ってきて、夢でうなされたほどだ。のんのんばあのあの朴訥とした説明を聞きながら、こわごわと見入ったこの宗教画は、ベビイだった私にあの世の存在と霊魂の実在を教えてくれた。
『水木サンの幸福論』より
おばけや妖怪、地獄の話を語り聞かせてくれる“のんのんばあ”との出会いは、水木が後に妖怪を題材にした漫画家になるきっかけでもありました。紙と鉛筆さえあれば飽きずに絵を描いていた水木は、13歳のときに図工教師からのすすめで個展を開いたこともあるほどの絵心の持ち主。すでに絵の才能を開花させていたものの、他の成績が散々だったことから進学ができなかった水木は高等小学校卒業後、親戚のツテで大阪に行き、働くこととなります。
「画家になる」夢と、現実の狭間。
大阪で水木を待っていたのは、過酷な日々でした。印刷会社に住み込みで働き始めるも、失敗ばかりで解雇を言い渡されるなど、周りから「問題児」、「厄介者」といったレッテルを貼られることも珍しくなかったとか。ですが、本人は特に気にすることもありませんでした。
やがて水木は両親から紹介された無試験の絵の学校に通い始めるも、授業内容に満足できなかったことからあえて独学で作品を創作していました。
学校の帽子には、“美”という美術学校まがいの徽章がついていたが、それがかえってニセ学生のようなうしろめたい気分にさせるくらいヒマな学校だった。
ぼくはますます「自習」に熱中した。
図書室へ行って人体解剖学の本の図を写し(これは、正確な人体デッサンに必要だと思ったから)、その行き帰りには、あちらこちらをスケッチするという猛勉強ぶり。
絵本の方もどんどんこりだして、アンデルセンやグリムの童話を絵物語にしてみようと、何日も何日も部屋にとじこもった。『ほんまにオレはアホやろか』より
この頃、水木は東京美術学校(現在の東京芸術大学)に進学して、画家になる夢を抱きますが、高等小学校しか出ていない彼は、受験資格すらも得られません。親を説得し、夜間中学に通いながら絵を描き、夢を実現しようと動き始めた時には、日本に戦争の影が迫っていました。そして水木は21歳のときに届いた召集令状により、ついに戦場へ行くこととなります。
爆撃で左手を失いながらも、現地民と交流を深める。
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太平洋戦争下のニューギニア戦線、ラバウルへ出征した水木。敵の攻撃から逃げ回るのが精一杯で、食糧さえも枯渇しがちだった日々はまさに死と隣り合わせでした。遅刻を繰り返すなど、失敗続きだった水木は上官から日常的に暴力を振るわれることも珍しくなかったといいます。
ある日、敵国から銃撃を受けた水木は、死にものぐるいで海へ飛び込みます。銃弾が体をかすめるほどの集中砲火を回避し、なんとか泳いで陸へ辿り着いた水木は銃を紛失したことに気がつきます。丸腰で、いつ敵に遭遇するかもわからない状況に陥った水木は、人が立ち入らないような山道を通って基地へ帰ろうとします。その道中も野生の動物や攻撃的な現地の民族に襲われかけるたび、水木は何度も死を覚悟するのでした。
海軍に助けられ、所属する隊の本部に戻った水木を迎えたのは、厳しい表情の上官たちでした。
奇跡の生還を果たした水木でしたが、上官にとっては敵前逃亡したばかりか、貴重な武器を紛失した落ちこぼれでしかありません。国のために命を投げ出すことが当たり前だった日本軍では、命からがら逃げてきたことは恥ずべき行為でした。生還を喜ばれるものだとばかり思っていた水木は、上官から「なぜ、死なずに逃げたのか」と責められ、愕然とします。
それからますます戦況は悪化します。命からがらの逃避行を終えた後、温かい言葉をかけられなかったことで虚無的になっていた水木は、マラリアを発症。何日もの間高熱に苦しんだ水木は、空襲で左腕を負傷します。
すぐ近くに衛生兵がいたから、かけ寄って止血してくれた。それでも、血はバケツ二杯も出たような気がした。もっとも、実際にそんなに出たら、とっくに死んでいることになるのだが、印象としては、そう感じるほどひどかった。いずれにしても、衛生兵の機敏な手当てがなかったら、死んでいたことはまちがいない。
『ねぼけ人生』より
空襲の翌日、軍医は治療のためにナイフで水木の左腕を切り落とすことを決めます。左腕を失い、傷病兵として後方に送られた水木の心の支えとなったのは、島の原住民であるトライ族でした。
初対面にも拘わらず、たくさんの食べ物でもてなしてくれたことに感激した水木は、配給のタバコと果物を交換するうちに意気投合。すっかり気に入られた水木は、たびたび兵舎を抜け出しては、彼らに会いに行くようになります。
トライ族の人たちとはますます仲良くなり、もはや友人を通り越して「同胞」のような存在に昇格していた。私の体内に居座る、のんきでゆったりとした「水木サンのリズム」と彼らのリズムが調和して、波長がぴったりと合ったのだろう。そうとしか考えられないほどの気の合い方だった。
『水木サンの幸福論』より
戦争を気にせず、自由に生きているトライ族と、威張って部下に暴力を振るうような上官。言うまでもなく、水木はトライ族と過ごす時間を大切にしていました。やがて戦争が終わり、「畑を分け与えるから、このまま一緒に暮らそう」とトライ族に提案された水木は、自らの意思でラバウルへ残ることも検討します。しかし上官に説得された水木は、「7年後にまた来る」とトライ族の人々に約束し、日本へと戻るのでした。
夢を叶えるも、食うための生活に向け悪戦苦闘。
帰国した水木は、武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)に入学するも、経済的な問題から数年で中退。戦後の傷が癒えない日本において、負傷兵である水木が安定した生活を送ることはまだまだ容易ではありませんでした。
その後も魚売りや自転車でのタクシー業など、食いつなぐために職を転々とするなか、成り行きでアパート経営を始めることになった水木。大家となったアパート「水木荘」には、紙芝居作家のアシスタントとして働く青年が引っ越してきます。水木は青年の紹介を受け、紙芝居作家として採用されますが、これは「絵を仕事にする」という幼い頃からの夢を叶えた瞬間でもありました。
水木は絵が得意ではありましたが、ストーリー構成を苦手としていたことから苦戦を強いられます。子どもたちを相手にする紙芝居では、見せ場はもちろん、次回への期待をもたせたまま終わらせるストーリー展開にすることが必須です。売れ線の作品を目指して苦手だったSFにまで手を広げても、売れる気配は全くありません。偶然、作品が売れたとしても、貸元が夜逃げし、給与が払われないことも珍しくなかったため、生活はいつも困窮していました。それでも一心不乱に紙芝居を書き続けた水木には、少しずつ紙芝居作りのノウハウが蓄積され始めていました。
そんな矢先、テレビの出現により紙芝居の人気は急落します。「このまま必死に描き続けていたとしても、紙芝居に未来はない」と思った水木は紙芝居に見切りをつけ、漫画家に転身。たったひとりで上京し、活動拠点を東京に移します。
長い下積み時代を終え、取り戻した「水木サンのルール」
漫画家に転身した水木でしたが、すぐに仕事が次々に舞い込んでくるわけではありません。暗く陰鬱とした作風が敬遠されて、出版社側から原稿料を安くするよう持ちかけられたり、作者名を無断で変更した旨を出版後に知らされることさえありました。
十日ばかりして、曙出版に金をもらいに行った。ぼくの力作が本になっている。手にとると、武取いさむ作となっているではないか。
「どうしたんですか、これは」
「水木しげるじゃあ全然売れなくてねえ。わるいけど、名前を変えさせてもらったよ」『ほんまにオレはアホやろか』より
得意とする怪奇ものを描くことを希望したとしても、前評判の悪さから出版ができず、疫病神扱い。家賃の滞納が続き、質屋でなんとか金を作って暮らすギリギリの生活からなかなか抜け出せません。
すでに40歳を迎えようとしていた水木は、親のすすめで同じ鳥取県出身の飯塚布絵と見合い結婚をします。その翌年には娘が誕生し、育児のためにますます安定した収入が求められると、水木は、一時漫画家を辞めようとも考えます。
そんな頃、「怪奇ものを描かせてくれ」と出版社を説得した水木は、『墓場の鬼太郎』を執筆。しかし鬼太郎は当初全く売れず、掲載されていた雑誌も廃刊してしまいます。ところが、一部の読者から「すごく面白かったから、なんとしても続きを出してくれ」と再開を望む手紙が届いたことをきっかけに、鬼太郎の単行本が出版され始めます。熱心なファンからの手紙がなければ、今のように鬼太郎が多くの人に読まれることはなかったのかもしれません。
さらに東京オリンピック開催直前の1964年、水木は知り合いの編集者から雑誌「ガロ」への執筆を提案されます。一世を風靡した白土三平の忍者漫画『カムイ外伝』と水木の『鬼太郎夜話』の2作が看板作品だった「ガロ」は、それまで「子どもが読むもの」とされていた漫画のイメージを一新します。散々な前評判を受けていたことが嘘だったかのように、鬼太郎はますます多くの人に読まれる機会を得るのでした。
「ガロ」で名が売れ始めた水木はその翌年、「少年マガジン」から執筆依頼を受けます。
その頃、「少年マガジン」の編集者がやってきて、宇宙ものを描いてくれという。しかし、僕は、宇宙ものは得意ではない。貸本マンガの連中で、雑誌から注文が来たのはいいが、不得手な分野なのに引き受けて、後で苦労した人が何人もいた。貸本マンガに引き返そうにも引き返せず、不得手な分野は当たらない、というわけだ。そういう例を知っていたから、僕は、この話は断った。
『ねぼけ人生』より
水木は人気雑誌からの依頼に喜びますが、少年雑誌への転身はそれまでの作風や絵柄を大きく変えることでもありました。それに加え「宇宙もの」という苦手なテーマを執筆できるのか悩んだ結果、水木は依頼を辞退。「どうして断ってしまったんだ」と後悔しますが、半年後に「テーマはお任せします」と再度依頼を受け、怪奇ものを描くチャンスを勝ち取るのでした。
水木はこのとき執筆した作品『テレビくん』で第6回講談社児童まんが賞を受賞したことから、多くの出版社から依頼が舞い込むようになります。
水木は40歳を過ぎて初めて、売れっ子漫画家となります。その人気ぶりは、当時の連載11本、テレビやイベント出演の依頼も相次いでいたことからもわかるでしょう。妖怪やお化け関連のイベントが多く開かれる夏は特に忙しく、10年間にわたって子どもを海水浴に連れて行くことさえできなかったと言います。
寝る時間はどんどん少なくなり、ときには寝ないことさえある。これも、二十代、三十代ならともかく、四十代も後半に入ってからでは体にこたえる。五十代になれば更にこたえる。
『ねぼけ人生』より
この頃、偶然にも水木はラバウルにいた頃の軍曹と再会し、二人で戦地を旅行することになります。再訪を約束していたトライ族の集落を訪れ、忘れかけていた「あくせく働かず、自由に生きることの大切さ」を思い出す水木。帰国後、締め切りに追われる生活から解放されることを望み、自ら仕事を減らすようになります。
現代を生きる私たちが知っておきたい、幸せの七ヵ条
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漫画家になってから再びラバウルを訪れ、人間の幸福について考えるようになった水木。やがて自らを「幸福観察学会の会長」として、それまでの人生で出会った人を観察して気づいた「幸せの七ヵ条」を広めようとします。では、その「幸せの七ヵ条」を見てみましょう。
第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。
第二条 しないではいられないことをし続けなさい。
第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追求すべし。
第四条 好きの力を信じる。
第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。
第六条 怠け者になりなさい。
第七条 目に見えない世界を信じる。『水木サンの幸福論』より
妖怪やあの世など、幼少時から興味を持って追究した第四条や第七条など、水木らしさがうかがえる“幸せの七ヵ条”。中でも異彩を放つ第六条の「怠け者になりなさい」は、文字通りの意味ではないのも実にユニークです。
自分の好きなことを自分のペースで進めていても、努力しなくちゃ食えん、というキビシイ現実があります。それに、努力しても結果はなかなか思い通りにはならない。だから、たまには怠けないとやっていけないのが人間です。
ただし、若いときは怠けてはだめなのです! 何度も言いますが、好きな道なのですから。でも、中年を過ぎたら愉快に怠けるクセをつけるべきです。『水木サンの幸福論』より
「怠け者になりなさい」と聞くと、ついつい目の前のことを投げ出してもいいようにも思えるもの。しかし、若いときは怠けずに一生懸命やるべきことをやるように、という水木からの強いメッセージが込められています。
これは、ラバウルで出会ったトライ族の生き方に由来します。働くべきときはしっかりと働き、その後は自由に時を過ごす。そんな生き方は水木に「本当の幸せとは、あくせく働くことばかりではない」という大切なことを思い出させてくれたのでしょう。
幸せの七ヵ条において一貫しているのは、「自分が好きなことを続けること」。それが見つからない人へ、水木はインタビューでこう述べます。
━自分の好きなことが見つからない人は、どうしたらいいのでしょう?
水木 小さい頃に熱中したことを思い出すこと。━なるほど。
水木 「私は漫画家に向いているでしょうか?」と私に聞く人がいます。そういう人は、その時点でだめ。本当に好きなら、他人の意見なんてどうでもいい。へただと言われても、向いていないと言われても、描かなくてはいられないものでしょう。『ちゃんと食えば、幸せになる 水木三兄弟の日々是元気』より
どれほど好きなことであっても、他人の意見で気持ちが揺れてしまうこともあるかもしれません。それでも「しなくてはいられないもの」であれば、自分の意志は揺らがないはず。その確かな「好きなもの」を信じていた水木の言葉だからこそ、私たちに強く響くのでしょう。
迷いがある時こそ、水木しげるの生き方を学ぼう。
水木サンが幸福だと言われるのは、長生きして、勲章もらって、エラクなったからなのか?
違います。好きな道で六十年以上も奮闘して、ついに食いきったからです。
ノーベル賞をもらうより、そのことのほうが幸せと言えましょう。『ちゃんと食えば、幸せになる 水木三兄弟の日々是元気』より
今の仕事を続けることに悩んでいたり、一度は夢を諦めてしまった経験がある人にとって、一生をかけて好きなことを続けた水木の生き方は大きな励みになるでしょう。水木が苦しい思いを強いられながらも諦めなかったのは、漫画を描くことが“幸せの七ヵ条”にもある「しないではいられないこと」であったことに他なりません。
人生にはときに苦しいことや思い通りにならないことが起きますが、そんなときこそ“幸せの七ヵ条”を心のどこかに留めておいてはいかがでしょうか。
【参考文献】 水木しげる『ねぼけ人生』 水木しげる『ちゃんと食えば、幸せになる 水木三兄弟の日々是元気』 水木しげる『水木サンの幸福論』 水木しげる『ほんまにオレはアホやろか』 |
初出:P+D MAGAZINE(2018/04/05)