思い出の味 ◈ 山口恵以子
九一歳の母は、去年の九月までは家の中を伝い歩きが出来て、要介護2だった。命の終わりまで低空飛行なりにこの状態が続くと思い込んでいたら、突然直腸から大出血して救急搬送され、寝たきりになってしまった。現在は退院して在宅介護だが、口からはほとんど物が食べられず、点滴で命をつないでいる。
こんな母の姿は想像もしていなかったので、居たたまれない気持ちがする。
元気な頃の母は働き者で料理上手だった。特に漬物が自慢で、季節ごとの糠漬に沢庵、白菜漬、塩ラッキョウ、瓜の印籠漬など、それこそ売るほど大量に作ったものだ。私は子供の頃から手伝わされた。五キロのラッキョウの皮を剥くのは本当に大変で、爪が痛くなった。そのせいか、塩ラッキョウは好きじゃない。
母の漬物の中で一番好きなのが瓜の印籠漬だ。瓜の種をくりぬいて茗荷と大葉を詰め、塩をして重石をすると、二、三日で水が上がってくる。この若漬けが美味い。漬物というより和風サラダの趣で、瓜の歯触りに茗荷と大葉の爽やかな香りが鼻に抜けて、漬物が苦手な人でも食べられると思う。もっと長く漬け込んでペシャンコになった酸っぱい古漬けを好む人もいるが、私は断然若漬け派です。
三十代で、家事は母から私にバトンタッチされた。その際、沢庵と塩ラッキョウは引き継ぎを勘弁してもらったが、印籠漬は継承した。食べた人はみんな気に入ってくれて、「漬物じゃないみたい」と褒められたこともあるので、漬物嫌いの方もお試しあれ。
昔の母のレパートリーには、私が作り方を習っていない料理もあって、近頃は妙に懐かしい。おぼろげな記憶を頼りに作ってみるが、やはり母の味とは違う。
母の料理が特別なのは、"思い出"というソースが掛かっているからだろう。"空腹は最高のソース"と言うが、思い出も負けてはいない。それが証拠に"お袋の味"はいつの時代も大人気だ。
人は食べ物を舌で味わうだけでなく、脳でも味わっている。だから"ありがた味"も"嫌味"もソースになる。
今日のソースは何だろう?