吉田修一『アンジュと頭獅王』

得たいものを得る喜びの先には、もっと大きな「誰かに分け与える喜び」がある

 童話「安寿と厨子王丸」や森鷗外『山椒大夫』の元にもなった中世成立の説経節「さんせう太夫」を、あの吉田修一が現代語訳したと聞き、訪れたのは西新宿「パーク ハイアット 東京」の豪奢な高層階の一室。この天にも届く天空の城に一週間篭もって吉田氏は本書『アンジュと頭獅王』を書き、平安末期から令和へと、800年の時を軽々と超えてみせた。
「元々この作品は、今年創業25周年を迎えたパーク ハイアット 東京に捧げる企画として始まりました。じつは20周年の時は、坂本龍一さんがホテルのコンセプト、TimelessにちなんだCDを製作されています。小説家として挑戦できる"時を超えて残るもの"は古典だなという発想から構築しました」
運命に弄ばれ、散り散りになった姉と弟の道行きが、作家の目には「恩に報い、人が人に分け与える物語」に映ったと言い、因果応報の理を説いた勧善懲悪譚が今、驚くべき進化を遂げる。


「最初はここを舞台にしたソフィア・コッポラ監督の映画『ロスト・イン・トランスレーション』みたいな都会の恋愛小説を考えていたんです。でも編集者と話す中で、やはり違うと思い、一度リセット。
そして原点に立ち返り、古典の現代語訳に初挑戦することにしました。その中で、世界水準のホスピタリティを標榜するこのホテルでは、宿泊客もジムの会員も実に満ち足りた表情をしていて、ここは全てを手に入れた人たちの場所なんだなあと思ったのです。
例えば僕は車の運転が好きなのですが、速い車でビューンと追い越す快感もあれば、道を譲ってハザードで感謝を示される快感もある。つまり自分が得たいものを得る喜びの先には、たぶん誰かに分け与えたり報いたりする喜びもあって、後者の喜びの方がずっと大きいことをこのホテルのお客さんたちは知っているように見えた。だからこの日本一ラグジュアリーなホテルには源氏物語ではなく、山椒太夫こそぴったりだと、僕にはそう思えたんです」

〈ただ今語り申す御物語、国を申さば丹後の国、金焼地蔵の御本地を、あらあらと説明すれば〉と序詞からして名調子な本作は、〈幸せに隔てがあってはならぬ。慈悲の心を失っては人ではないぞ〉と説いた奥州岩城の判官正氏殿が不心得者の奸計に堕ち、太宰府に流された悲劇に端を発する。

 母・御台所共々、伊達の郡・信夫の荘に落ちのびたアンジュと頭獅王はこの時、数え14歳と12歳。2人は父の冤罪を帝に訴えるべく母や乳母と共に京をめざすが、越後・直江で人買いの山岡太夫に騙され、2艘の船に分乗してしまったのが運の尽きだった。親子は別々に売り飛ばされ、泣き暮れて盲目になった母は佐渡の鳥追いに、丹後・由良の港を仕切る山椒太夫に買われた姉と弟は汐汲みと柴刈りに、それぞれ身を落とすのだ。

「別れの際、御台所がアンジュに地蔵菩薩、頭獅王に奥州五十四郡の系図の巻物を持たせたように、元々は何不自由なく育った姉弟が奴隷同然にこき使われる、悲惨な話ではあるんですよ。
ただその中にも頭獅王に同情して刈った柴を分けてくれる仲間や、アンジュが姉と慕う伊勢の小萩のような優しい人もいて、人間の善意と悪意が両方描かれているからこそ、古典は古典たりえるのかもしれない。僕も特に黒吉田と呼ばれる作品ではどす黒い悪意をずいぶんと書いていますが、それは間違っていなかったんだなあと、少し安心しました(笑い)」

 姉弟は逃亡する度に山椒太夫や残忍な三男・三郎に捕らえられる。やがて身を挺して弟を逃がしたアンジュは拷問で命を落とす。一方国分寺に匿われた頭獅王はお聖様の背負った皮籠の中に身を隠して京をめざすのだが、〈何百年かかろうと、きっと願いを叶えてやる〉と誓うお聖様共々、本当に800年の時を超えてしまうのである。

「足るを知る」のは本人次第

〈七条朱雀の権現堂を立ち出でて、三条大橋・八坂の塔はこれとかや。大津走井の井戸で水を汲み、草津の早駕籠、土山春の雨〉と、一行が東海道を東上する間、〈浦賀に立つ黒船ペリーとはこれとかや〉と時代までが行き過ぎ、〈日清日露の大行進〉〈5・15、2・26、1945、8・15〉〈皮籠は揺られて、ほうれほれ〉〈令和恋しや、ほうれほれ〉と文語の心地よさに運ばれた末に、〈内藤新宿とはこれとかや〉とゴールを迎えるくだりは、何とも見事だ。

「この東海道を行く場面はもちろん原典にないのですが、元々お聖様が誓文を立てる場面がとにかく心地良かった。そこで、こういうリズムに乗せることで一気に時空を超えられるんじゃないかと思い、綴りました。この説経節が時代を超えられた要因は何より語り口にあるし、語り自体の面白さやリズムを損なわないよう、言葉を選んだつもりです」

 そして姉弟はなんと令和の新宿で再会を果たす。お聖様と別れて食い詰める中を町の人々やサーカス団の団長らに救われ、果ては六条院の養子に迎えられた頭獅王と、転生の末に新宿で春を売るアンジュが父の汚名を雪ぎ、宿敵と対峙するシーンが、今一つのハイライトだろう。彼女は〈仇を仇にて報ずれば、燃える火に薪を添えるようなもの。逆に仇を慈悲にて報ずれば、これは仏と同格なり〉と言い、憎き山椒太夫親子にすら情けをかけるが、なおも欲をかく親子は黄泉の国に堕ち、逆に姉弟の苦境を救おうとした聖や伊勢の小萩や新宿のストリートチルドレンには〈褒章〉で報いた。

「父の名誉を回復し、今や持てる側になった彼らには、仇より恩に生きる道を選んでほしかったし、その方が現代的な気がしたんです。
確かに慈悲を反故にした山椒太夫や三郎は原典でも相応の罰を受ける。ただしそれは自業自得ではあるし、たとえ仏と同格にはなれなくても助け合ったり分け合ったり、人間同士だからできることも僕はあると思います。何もそれは富や名誉を得た人間に限らず、僕ら名も無き庶民にもできることで、人生に満足し『足るを知る』のは本当に本人次第だなあと、令和の新宿で仏教的なことを思ったりしました」

 この「吉田版・古典エンターテインメント」が時空を超えた意味はそこにあり、とかく説教臭くなりがちな教訓が文語のリズムに乗るとあら不思議、心と身体にすんなり沁み入ってくるのである。

吉田修一(よしだ・しゅういち)
長崎県生まれ。法政大学経営学部卒。97年『最後の息子』で文學界新人賞を受賞しデビュー。02年には『パレード』で山本周五郎賞、『パーク・ライフ』で芥川賞を受賞。07年『悪人』で毎日出版文化賞と大佛次郎賞、10年『横道世之介』で柴田錬三郎賞、19年『国宝』で芸術選奨文部科学大臣賞と中央公論文芸賞。他に『犯罪小説集』『吉田修一個人全集コレクション1青春』等。映画化作品も多数。175センチ、68キロ、O型。


かの著名な古典が
「令和の新宿」を舞台に
当代随一の筆で蘇る
──
800年の時空を駆け抜ける快作!アンジュと頭獅王

 『アンジュと頭獅王』
小学館
装丁/おおうちおさむ
装画/ヒグチユウコ


(構成/橋本紀子 撮影/田中麻以)
〈「週刊ポスト」2019年10月11日号掲載〉
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