◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第8回 前編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第8回 前編

佐藤玄六郎は蝦夷地から江戸に戻る。
勘定奉行の松本秀持の目を引いたものは──。

 

     二十四

 天明五年(一七八五)十二月一日、松平越中守定信(さだのぶ)が溜間詰(たまりのまづめ)を命じられた。溜間は城中三番目の大名詰め所で、ここに詰める大名は、老中と政務を議論することもあれば、顧問役として将軍に意見を上申することもできた。

 二十八歳を数えるこの白河十一万石の藩主は、別格の背景を持っていた。父は御三卿の田安宗武(たやすむねたけ)、すなわち祖父は八代将軍吉宗(よしむね)である。

 尾張・紀伊・水戸の御三家は、将軍家の血統を保持し幕政を補佐する役目を担いながら、それぞれが居城を有する独立した大名となった。それに対し、田安・一橋・清水の御三卿(ごさんきょう)は、将軍の庶子(しょし)として同様の意義を含みながら将軍家の部屋住(へやずみ)の扱いで、江戸城内に屋敷を与えられ扶持米(ふちまい)十万俵を与えられるだけだった。御三卿は、徳川宗家の血筋を守るため、いざという時には御三家より優先して世継ぎを出せるところがせいぜいの利点だった。

 松平定信は、宝暦八年(一七五八)十二月、江戸の田安邸に生まれた。明和八年(一七七一)父宗武が没し、田安家は兄の治察(はるあき)が継いだ。

 安永三年(一七七四)三月、十七歳の定信は、将軍家治(いえはる)の命により、白河十一万石松平定邦(さだくに)の養子となって田安家を出た。そもそも御三卿は、将軍の側室が産んだ子のすべてを御三家のように大名として独立させていては幕領が不足するため部屋住としておき、いずれ適当な大名に養子として送り込むという目的のもとに設けられた。

 ところが、同じ安永三年八月になって田安家の家督を継いだ兄治察が病没するという事態に見舞われた。弟の定信は白河の松平家へ養子に出ており、田安家は断絶の危機に瀕した。そこで定信の田安家復帰が図られたものの、実現はしなかった。

 定信の田安家復帰をはばんだのは、御三卿の一橋治済(はるさだ)と老中の田沼意次だと語られた。そこには後継将軍がらみの野望がひそんでいた。

 十代将軍家治の嫡男家基(いえもと)は、安永八年(一七七九)鷹狩りに出て急病となり、その年に十八歳で没した。次男も宝暦十二年(一七六二)に生後三ヶ月で死亡しており、将軍家治は実子の後継者がいない状況となった。御三家より優先して世継ぎを出せる御三卿のうち、田安家の定信らは白河松平家に養子に出ており、一橋家の治済のもとから長男の豊千代(とよちよ)を養子として迎えるしかなくなった。豊千代は八代将軍吉宗から四代目の曽孫に当たる。

 吉宗の孫である定信が、もし安永三年に兄の病没によって田安家に復帰していたならば、将軍位の継承権は豊千代より上位にあったことは確かだった。

 一橋家の家老は、田沼意次の弟意誠(おきのぶ)がつとめ、安永二年に意誠が没すると息子の意致(おきむね)が後を継いだ。豊千代の徳川宗家入りにともない、田沼意次の甥に当たる意致は、豊千代付きの御小姓番頭格(おこしょうばんがしらかく)となった。意次は、いずれ将軍の実父となる一橋治済はもとより、次期将軍の周囲にも強い関係を築くことに成功した。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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