江國香織さん 『彼女たちの場合は』

第129回
江國香織さん
彼女たちの場合は
劇的に変わっていくのではなく、小さい変化を拾っていきたかった。
江國香織さん 『彼女たちの場合は』

 心をときめかせるロードノベルが生まれた。江國香織さんの『彼女たちの場合は』は、日本人の少女二人がアメリカを旅する物語。目的はなく、行先は決めず、しかも親の承諾も得ず……。彼女たちの場合、そして何が起こったか。アメリカの地図を思い浮かべながら楽しみたい長篇だ。

アメリカを旅する日本人少女

 読み進めながら、すっかり彼女たちと一緒にアメリカを旅している気持ちになっていた。それくらい、各地の景色や食事や街の空気感、出会う人々の個性がありありと伝わってくる。江國香織さんの新作長篇『彼女たちの場合は』を読めば誰もが、きっと著者もこのルートを辿ったことがあるに違いないと思うだろう。だが、

「いえ、行ったことのないところもいっぱい出てくるんですよ」

 というのだから驚く。

 ニューヨークに暮らして五年目の理生那と潤夫婦には、十四歳の娘、礼那と九歳の息子、譲がいる。彼らと同居するのは、理生那の兄夫婦の娘、十七歳の逸佳だ。彼女は昨年日本の高校を自主退学し、高卒認定試験に合格したので親の勧めでアメリカに留学しているのだ。だが十月のある日、逸佳と礼那が親に断らずに旅に出てしまう。置き手紙には、これは家出ではなく、電話もするし手紙も書く、とある。実際、二人が旅立った理由は「もっとアメリカを見なくちゃ」というもの。学校も恋愛も女の子たちとの友達づきあいも、多くのことが"ノー"である逸佳にとって、唯一"イエス"と言えるのが"見る"ことなのだ。その逸佳の提案を、人懐こく大らかな礼那は受け入れ、彼女たちはまずニューヨークのホテルに滞在後、バスで北東のニューイングランド地方を目指す。

「きっかけはふたつあります。ひとつは私もアメリカに留学していた二十三歳の時に、女の子の友達と小さな旅に出たんです。行先を決めずに、二人で人形を抱いて(笑)、バスに乗って。でも意気地なしだから一週間くらいで戻りました。そのことを『小説すばる』の当時の編集長に話したら、"面白いので小説にしてください"と言ってくださったんです。もうひとつのきっかけは、自分の年齢が上がるにつれ、小説に書く登場人物の年齢も上がってきているな、と感じていたこと。若い人が書けなくなっていると言われると悔しいので(笑)、書いてみたかったんです。自分もあの二人旅の時にもっと度胸があったら、いろんな冒険ができたと思う。それで、まだ子どもと大人の中間くらいの二人が目的なく冒険する話になりました」

北へ、西へ、やがて南へ

 彼女たちはまずアメリカ最東北部のメイン州を目指し、そこから少しずつ西に移動。オハイオ、そしてテネシー、そして……。

「行先は本当に何も考えていなかったんです。交通の便がいいので最初はバスにしようと思い、時刻表などを見ながら、どこにしようかと考えていきました。二人がこの街のお洋服屋さんが見たいと会話していたり、性格設定のノートに礼那はアーヴィングが好きと書いてあったりするので、だったら『ホテル・ニューハンプシャー』の舞台に行ってみたいと思うだろうな、などと考えましたね。自分も若い頃はどこにでも行ってみたくて、旅先を決める深い理由なんてなかったんです。"あの小説の舞台のところ"とか"たまたまテレビで見たあそこ"とか、そんなことが理由でした。時間だけはあったから、ふらふらして決めていました。逆にいうと、目的もモチベーションも何もないまま、どこかに行こうとする、そういう二人にしたかった」

 ちなみに、人物造形は書き始める前にノートに細かく設定を書いているそうだ。誕生日や身長などのほか、たとえば礼那はアーヴィングや太宰治などを読んでいる設定にしている。それには理由があり、

「もう五年もアメリカにいると、日本の最新刊の本はあまり読んでいないだろうな、と。両親の本棚から選ぶとすると、ちょっと上の世代が読んでいる本や古典など、普遍的なものが多いだろうなというのがありました」

"ノー"の多い逸佳と、屈託のない礼那は、対照的だが案外いい組み合わせ。

「礼那の性格は羨ましかったし愛おしかったですね。二人はいい組み合わせだと思いますが、従姉妹同士というのも大きいですね。姉妹ほど遠慮がないこともなく、友達ほど気を遣うわけでもない。それに三歳差というのも重要でした。この時期のこの年齢差って大きくて、自意識のありようが違うと思うんです。十四歳はまだ自分を世界から守る発想がなかったりする。同じように旅していても、物事の受け止め方とか、世界との接し方も違うはず。それも書いてみたかったかもしれませんね」

 メイン州でロブスター料理を気に入り、ニューハンプシャー州のホワイトマウンテンで盛大に揺れる蒸気機関車に乗り、オハイオ州では老婦人の留守宅を預かり……それにしても行ったことのない場所を、どうしてここまでリアルに描けるのか。

「映画で観た記憶のある場所もあるし、ガイドブックや写真集も参考にしました。二人がいろんな景色を見たほうが楽しいだろうと思いましたが、劇的に変わっていくのではなく、小さい変化を拾っていきたかった。それであえてビーチに行かせてみたり、山に行かせたりしてみたところはあります」

 ただ、彼女たちの年齢ゆえに苦労した点も。

「子供だからお酒が飲めないんですよね(笑)。グルメなこともできない。といってハンバーガーとフライドポテトとか、デリのサンドイッチばかりではつまらないので、彼女たちの手の届く範囲で、できるだけバリエーションを作りました」

 時には危険な目に遭うことも……。

「この二人が注意深くて、なかなか作者の思うようにはならなかったですね。もっと悲惨なことが起きても小説としては面白いものになったし、それを乗り越えるたくましさも物語にほしかった。でも、危なそうな男の子を登場させても、あの二人は避けるんです(笑)」

 読み手としては親になったような気分でハラハラすることになるのだが、

「私も、ここでなぜもっと激しい出来事にならないのかなと思いつつ、ちょっとほっとしたりしました(笑)」

親たちそれぞれの反応は

 彼女たちの親の反応はまちまちだ。礼那の親である理生那と、逸佳の父親で日本に住む新太郎は、最初は心配するものの、娘たちが絵葉書や電話をよこすうちに見守る姿勢になる。だが、理生那の夫の潤は、なんとかして二人を帰宅させたいというスタンス。

「新太郎と理生那の兄妹のほうが大らかである、という設定は最初に決めていました。それは、それまでの育ち方が大きく関係している。ただ、理生那だって最初から旅を応援していたわけではなくて、次第に変わっていくんですよね。自分が見たこともないものを見ているということが、ちょっと羨ましかったのかもしれない」

江國さん

 自分が親だったらどうだろうかと、つい考えてしまうが、

「うちは父が厳しかったんです。門限も異常なくらい厳しくて、高一の時、学校のスキー教室も駄目と言われて。でもどうしても行きたくて、闘ったり泣いたりして結局行かせてもらいました。スキー教室から帰ってきた時、興奮して"東京と違って雪がサラサラしていた"とか"はじめて豚汁を食べた"といった話をしたら、父は"それはよかったな"と一緒になって感激してくれて。父は変われる人だったんですよね。それに私には厳しかったけれど、妹には甘かった(笑)。母は"パパがいいというならいいわよ"という人でした。だから、いろんなサンプルがあったので、親の反応は書きやすかったです」

 二人の旅の資金源は、逸佳の貯金と、親のクレジットカード。実は親たちはカードの明細によって二人がどこを旅しているのかを把握しているのだが、潤の強い要望によって、カードは止められてしまう。そうすれば困って親を頼ってくると思ったのだ。だが意に反し、逸佳はアルバイトをして資金を作ろうとする。

「お金があるから旅しているわけではないし、働くのが嫌なわけでもない。どうしても働きたいわけでもないんですけれど、とにかくまだ戻りたくないんでしょうね」

"ノー"の多い逸佳にとってはかなり能動的な決断。こうした、彼女の成長も読みどころ。

「彼女はすべてに否定的というよりも、根拠を持っていないんですよね。将来こうしたいとか、どこに行きたいとか、何かを決める根拠がないから"ノー"になる。それは慎重さの表れでもある。根拠を持っていないと自覚できるのは、むしろ賢いことだと思います」

 では彼女にとって、なぜ"見る"ことだけは"イエス"だったのだろう。

「"見る"って何かなんですよね、きっと。うまく言えないんだけれど、フェアさの問題のような気がします。"暮らす""愛する"といったことと違って、見ることって、ジャッジは後からするもの。それは自分が傷つかず安全でフェアなことであり、自分が変わらないでいられることでもある。本当は通りすぎて見ただけでも自分が変わってしまうんですけれどね」

 そんな彼女にも大切な出会いが訪れる。編み物が好きな寡黙な青年、クリスだ。数日間彼女たちの観光につきあってくれた彼とは友情のような、関係性が芽生えていく。

「逸佳はちょっと恋をしているだろうけれど、クリスはしていない。でも彼女たちのことをすごく好きになっていますよね。私は、大人と子供であっても個人と個人として、好きになりあえるのはすごく楽しいと思う。日常の中にいるとみんな学生とか親とかいった役割を担うけれど、旅に出るとまったくの個人になるので、こういう関係は生まれやすくなるかもしれません」

あの二人、あの家族の場合は

 どこまでも先に進んでほしくなる旅だが、しかしやがて終わりはくる。

「私はちょっと寂しかったですね。もっとあの子たちの旅を見たかったです。本当に自分が昔旅をしていた頃の、帰ってきた時に感じる"終わっちゃったな"という寂しさと似ています」

 彼女たちのその後についても言及され、「おっ」と思わせる。

 タイトルは最初から決めていたという。

「もちろん逸佳と礼那のことなんですけれど、理生那と潤のことでもあるし、新太郎夫婦のことでもあるかもしれない。旅の間にこういうことが起きた、という意味もありますが、"こういうことがあった場合、結果この人たちはこうなりました"という話でもありますよね」

 この年齢の、ここにいる江國さんの場合、こうした小説になった。この小説をあなたが読んだ場合、心の中で何が起きるだろう。

江國香織(えくに・かおり)

1964年東京都生まれ。2002年『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』で第15回山本周五郎賞、04年『号泣する準備はできていた』で第130回直木賞、07年『がらくた』で第14回島清恋愛文学賞、10年『真昼なのに昏い部屋』で第5回中央公論文芸賞、12年「犬とハモニカ」で第38回川端康成文学賞、15年『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』で第51回谷崎潤一郎賞を受賞。他の著書に『きらきらひかる』『左岸』『はだかんぼうたち』など多数。

〈「きらら」2019年6月号掲載〉
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