蝉谷めぐ実『おんなの女房』

おんなを味わう

蝉谷めぐ実『おんなの女房』

 江戸の歌舞伎役者たちの生き様をミステリ的趣向とともに綴った『化け者心中』で第一一回 小説 野性時代 新人賞を受賞した蝉谷めぐ実さんは、時代歴史小説の新たな担い手として颯爽と文学界に現れた。同作で第一〇回日本歴史時代作家協会賞新人賞と第二七回中山義秀文学賞を受賞し新作への期待が高まる中、ついに届けられた長編が『おんなの女房』(一月二八日発売)だ。


役者の業について書いてみたかった

 一九九二年生まれ大阪府出身の蝉谷めぐ実は、早稲田大学文学部で演劇映像コースを専攻し、化政期の歌舞伎をテーマに卒論を執筆、広告代理店勤務を経て現在は母校の職員として働いている。職員になると、早稲田大学演劇博物館で歌舞伎関連の資料が借り放題になる。つまり、小説を書くために、転職をした。

「江戸初期に初めて現れた女形の存在をきっかけに歌舞伎への興味を抱き、女形を含む役者という生きものの業について書いてみたいと思ったのが『化け者心中』でした。いい役者になるためには何だってする、〝鬼になれと言われればなる!〟という彼らの心情には、小説家になれるんだったら何だって差し出す、という私自身の怨念が反映されています」

 一年四ヶ月ぶりとなる第二作の舞台はデビュー作と同じく化政期の江戸、ただし主人公は役者ではなく、役者の「女房」だ。実は当初、足を失い舞台に立てなくなった元女形と芝居を知らない鳥屋の青年──デビュー作の「ホームズ&ワトソン」コンビの続編を書く案もあったという。しかし、やむなくそれを退けた。こちらの物語が、書きたくてたまらなくなってしまったからだ。

「『化け者心中』を書くため資料の山へ潜っている時に出合ったのが、化政期の『女意亭有噺』、当時の歌舞伎役者の女房をランク付けした評判記だったんです。役者は表舞台に立つ人間ですから評価されてなんぼみたいなところはあると思うんですが、女房までも勝手に評価してしまうのが面白い。私は歌舞伎の非日常的なきらびやかさも好きなんですが、歌舞伎文化全体を見渡した時の、俗っぽい部分も大好きなんです。この資料を元にしてどんな小説が書けるか、構想がどんどん膨らんでいきました」

 構想の軸はおのずと、一点に絞り込まれていった。主人公となる女房の旦那は、女形がいい。

「今とは違い当時の女形は、普段から女性の格好で生活し、日常的に芸道修行をする者が多かったと言われています。自分より綺麗で美意識が高く〝女らしい〟女が家の中にいることは、女房にとってどんな心情を抱くことになるのか、どうしても知りたくなってしまった」

 とはいえ、女性がものを言うことは憚られる時代だ。江戸期の歌舞伎役者の女房の、しかも内なる心情にまつわる史料は全くと言っていいほど存在しない。「第三者が憶測込みで勝手に書いた役者女房評判記の文章と、〝女形は女の女房がいることを公言すべきではない〟などといった芸談が一部残っているくらいです」。ならば、小説家の出番だ。

史料に当たることで想像が自由になる

 新進気鋭の若女形・喜多村燕弥が暮らす木挽町(現在の銀座)の家に出入りする志乃は、周囲から「女中」と思われているが、実は「女房」だった。父親が決めた相手だからと、二十歳になる手前で、相手の顔や素性を知らぬまま嫁いできたのだ。「武家の娘」として厳しい教えを受けてきた志乃は、〈いつだって父親の三歩後ろで添うている母親を見習〉おうとしていたのだが、二ヶ月経った今も尻を落ち着ける場所が分からない。〈この人の後ろか、それとも前か。/なぜってこの人が、常に女子の姿でいるからだ〉。

 夫婦らしい営みは生活の中に介在しない、二人の名状し難い関係性にほのかな可笑しみを込めた、小気味いい語り口に魅了される。合間合間に挿入される〈新芽の薄皮を一枚剥いたような透いた肌〉といった比喩表現も効果的だ。

「比喩の良さは、主人公が対象物をどんなものとして捉えているのかが分かるんです。例えば、燕弥の肌を〝新芽の薄皮〟というふうに植物で表現しているのは、相手を血の通った生き物ではなく、自分とは根本的に異質な存在として感じているからなんですよね」

 燕弥はお江戸三座の一つである森田座で、『鎌倉三代記』の舞台に立っている。親の北条時政を討たなければ、時姫は恋焦がれる三浦之助と結婚できない──。「旦那の仕事場に女房が顔を出すなんて言語道断でございます」と考えていた志乃が、舞台の筋書きとともにヒロインを演じる燕弥の評判を偶然耳にしてあることに気付く。並の作家であれば最終盤まで引っ張るであろう「謎」が、第一章(「一.時姫」)の時点で明らかにされる点が素晴らしい。

「やや几帳面に過ぎるけれども、江戸時代にはよくいたであろう感性を持つ女性が、女形の女房になったことでどう変わっていくか。その変化こそが書きたいところだったので、燕弥との因縁に当たる部分は第一章で全て出しました」

 第二章(「二.清姫」)では、森田座随一の人気を誇る立役の女房・お富が志乃の前に現れる。旦那に浮気の匂いを嗅ぎつけると小屋へ怒鳴り込むほど、苛烈な性格の持ち主であるお富の存在が、志乃の抱いていた女房観や夫婦観を揺さぶっていく。

「お富が旦那に浮気を疑われた時、指を切り落として潔白を主張したというエピソードは、実際にいた歌舞伎役者の女房の話を下敷きにしました。もう一人出てくるお才という人も、ある有名な歌舞伎役者の女房をモデルにしています。〝作ったエピソードでしょ?〟と思われるかもしれませんが、二人の女房の身に起こったことは、本当にあったこと。これが本当にあったと思うことで、他にもこういうことがどこかで起こっていたかもしれない、こういうことを考える人がいても不思議ではないのではないかという連想が始まっていく。私にとって過去の史料に触れることは、小説の題材や時代について正確に書くためだけでなく、想像力をより自由にするためのものでもあるんです」

女形が演じる役から日々の活力をもらう

 全四章+αの物語は、一章ごとに異なる歌舞伎の演目が取り入れられている。物語は、女形にとって屈指の演目として知られる三姫(『鎌倉三代記』の時姫、『祇園祭礼信仰記』の雪姫、『本朝廿四孝』の八重垣姫)に、燕弥が挑戦する日々の記録にもなっている。

「歌舞伎のお姫様は悲劇のヒロインばっかり、と世間では思われているかもしれないんですが、結構強いお姫さまも多いんです。三姫はその象徴と言える存在で、女という生き物の凄みを感じさせます。なおかつ、これは私が文化文政を好きな理由でもあるんですが、この時代は、世の因習をぶち破るような女の存在が色んなところで書かれるようになっていたんですよ。特に女性の観客たちは、女形にアイドル的に憧れるだけでなく、女形が演じる役の人間性を通して、日々の活力をもらう部分があったと思うんです」

 スターダムを駆け上がる燕弥の「変化」も作用して、志乃の心情はさらに複雑に「変化」する。

 例えば、女形である以上は、相手役がいる。燕弥と男性役者との特別な関係性を、志乃はうらやむようになり──。

「物語などでよく描かれる〝男同士の絆〟って強固だしすごく美しいものだと思うんですが、その周りには、そこから弾かれてしまった女性がいる。その心情は、ぜひ書きたいと思っていたところでした。志乃は口に出して言えるほど強い女ではないんですが、〝私を取るの? 仕事を取るの?〟という気持ちもあるんですよ。当時の女の役割として旦那様を立てようとはするんだけれども、〝そういうことを思っちゃうのはしょうがないでしょ?〟と、開き直っている部分もちょっとある(笑)。燕弥との関係性が改善するうちに、どんどん欲が出ていく志乃を書くのは楽しくてたまらなかったです」

 ぐらぐら揺れる志乃の心情は、やがてどんな境地に辿り着くのか。疾走感あふれるラストシーンで描かれた志乃の大いなる決断を前に、現代の読者が「活力をもらう」こととなるのは間違いないだろう。

「女形の意味もあり性別上の女でもある〝おんな〟とはどういうものなのか、いいところや悪いところ、綺麗なところや汚いところも全部ひっくるめて、志乃に味わってもらいました。その先で志乃が自分で考え、自分で見つけ出した答えには、正解も不正解もないのかなと思います」

 次回作は『化け者心中』の続編を予定している、と教えてくれた。ここで全てを出し切ったからこそ、次へと進むことができたのだ。


おんなの女房

KADOKAWA

文政期の江戸。歌舞伎とは無縁の武家の娘・志乃が、気鋭の女形のもとへ嫁いだ。芝居こそ全ての夫に仕えながら、おんなの生き方を問う、全四編の連作短編集。歌舞伎の演目を各話に編み込む構成も卓越しているが、とりわけ人物造形が魅力的。妻の女友達などの脇役も、鮮やかに描かれる。


蝉谷めぐ実(せみたに・めぐみ)
1992年大阪府生まれ。早稲田大学文学部で演劇映像コース専攻。大手広告代理店を経て現在は大学職員。2020年、「化け者心中」で第11回 小説 野性時代 新人賞を受賞し、デビュー。21年、同作で第10回日本歴史時代作家協会賞新人賞、第27回中山義秀文学賞を受賞。

(文・取材/吉田大助 撮影/藤岡雅樹)
〈「STORY BOX」2022年2月号掲載〉

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