【著者インタビュー】最相葉月『証し 日本のキリスト者』/「なぜ、あなたは神を信じるのか」という深遠な問い

神を信仰して生きるとは、どういうことなのか――幾多の困難に直面しながらも、神を信じ続ける人の半生を軸に据えたノンフィクション!

【ポスト・ブック・レビュー 著者に訊け!】

なぜ、神を信じるのか――日本各地の教会を訪ね聞いた信者たちの記憶と心の軌跡 圧巻のノンフィクション!!

証し 日本のキリスト者

KADOKAWA 
3498円
装丁/クラフト・エヴィング商會[吉田浩美・吉田篤弘]

最相葉月

●さいしょう・はづき 1963年東京生まれ神戸育ち。関西学院大学法学部卒。97年『絶対音感』で小学館ノンフィクション大賞。07年の『星新一 一〇〇一話をつくった人』で大佛次郎賞、講談社ノンフィクション賞、日本SF大賞、日本推理作家協会賞、星雲賞。著書は他に『青いバラ』『いのち 生命科学に言葉はあるか』『東京大学応援部物語』『ビヨンド・エジソン』『セラピスト』『れるられる』、エッセイ集『なんといふ空』『辛口サイショーの人生案内』等。157㌢、O型。

神を信じるからこそ疑い、問い続けるのが信仰を生きるということなのかもしれない

 北は北海道や東北、南は沖縄や奄美や小笠原まで、足かけ6年を費やして総勢数千名の信者と会い、うち135名の証言をまとめた、最相葉月氏の最新作『証し』 。その1000頁を優に超す厚さと重さは、この国のキリスト者達の一言では括りがたい在り様をそのままに物語る。
 実は日本ではキリスト系の学校や行事も多いわりに、信者数は人口の約1・5%。〈親しんではいるが、信仰はしていない人が大多数のこの国に生きる、一パーセント強のキリスト者がどのような人たちなのか。彼らの声に耳を傾けたいと思い、筆者が旅に出たのは二〇一六年の初めだった〉
 その旅を九州から始めた著者自身、ミッション系の幼稚園や大学に通いながら信仰はしなかった1人でもあり、〈なぜ、あなたは神を信じるのか〉という素朴にして深遠な問いは、非信者が生きる今をも映し出す。

「元々は何の計画性もなく、とにかく人に会って、話が聞きたかったんですね。
 今はSNS全盛で誰もが物を言う一方、本意そっちのけに切り取られたりと、言葉が酷く軽んじられている状況にほとんど怒りに近い感情を抱いていたんです。せめて私にできるのはネットには載っていないことを書くことであり、人の話を納得ゆくまで全部聞くことだという思いが、Twitterが上陸した08年前後からずっとありました。
 そんな頃、昨年亡くなられた中井久夫先生と出会い、カウンセリングの起源について調べる中、実はそれが占領下に来日した宣教師の息子を通じて日本に入り、彼がカウンセリングの生みの親の心理療法家カール・ロジャーズの弟子だったことも、『セラピスト』(14年)の取材で初めて知った。
 つまりその宗教色が脱色された形で日本に入り、方法論だけが残ったわけです。これは驚きでしたね」
 さらに『ナグネ』(15年)に登場する中国朝鮮族の友人の実家が禁教下の中国で地下教会を営んでいたことなど、いくつかのきっかけが重なり、聞く対象、、、、がキリスト者に絞られていったという。
「その友人とは駅でたまたま行き先を聞かれて以来、かなり親しくなったんですけど、『こんなに素晴らしい世界を信じないなんてどうかしてる』とか、帰り際に上から目線で言われる度に、喧嘩になるんです(笑)。
 むろん彼女には彼女なりの事情があったんですが、もはや日本に生活レベルで入り込むキリスト教というものを、一度きちんと知る必要があるだろうと」
 まずは北九州市立文学館主催「子どもノンフィクション文学賞」の選考で訪れた小倉を起点に九州を南下。
「その小倉でキリスト教と在日コリアンの悲劇の歴史に触れ、これは大変な取材になりそうだと思いながら熊本へ。なのに熊本バンドの取材もせずに人吉に行ってみたり、喩えは仏教的になりますが、人とのご縁に終始身を任せる、行き当たりばったりの旅でした。
 そうやって歩いてみると、やっぱり1人1人に大変な信仰や人生の物語があって、結果的には『神とは何か』というより、『神を信仰して生きるとはどういうことなのか』をめぐるノンフィクションになっていった。
 神に関してならドーキンスやホーキングが彼ら科学者へのバッシングに答える形で書いていますが、その神を信じる人の半生を軸に据えた本となると、なかなかないように思います」
 ちなみに『証し』とは、〈キリスト者が神からいただいた恵みを言葉や行動を通して人に伝えること〉
 実際、著者が訪ね歩いた津々浦々の信者や牧師達は、「こんな話で宜しければ」と言って、神との出会いや自らの来し方を思い思いに語り、その方言や言い回しや息遣いすらそのままに、最相氏は本書に書き留める。
 その中には、長崎や五島の禁教の歴史に連なる人々や、近代以降に迫害の対象となった奄美のキリスト者、先述の在日系教会やハンセン病療養所で信仰と出会った人、ダウン症の息子を亡くした母親や震災の被害者など様々な人がいた。そして、差別や貧困、虐待や死別といった不条理と信仰との関係性も、実は驚くほど人それぞれなのだ。

洗礼を受けようと思う瞬間もあった

「そうしたつらい経験から信仰に入った方もいれば、わりと普通の感覚で聖職者になる方もいて、雷に打たれるような経験をした方って意外と少ないんですよ。それも話を聞いてみて初めてわかったことで、だから〈問う〉わけですけれどね。
 自分はこれで救われたと、証しを立てられる人の方が実は少数派で、神を信じるからこそ疑い、何度も問い続けるのが、信仰を生きるということかもしれない。実際、〈じゃあ、神様に懸けてみます〉と言って始まる信仰もあれば、幼児洗礼を受けた後悔を語る人もいて、いわゆる宗教2世3世問題というのも献金云々より、もっと語られるべき側面があるように私は思います」
 そもそも信仰というのは、人智を超えた脅威や災害を前にして山や海に祈るなど、元々は共同体単位の小さな祈りだったものが、人間の行動の拡大と共に神もまた大きくなっていったという。
「その点、日本では仏様や神様が寛大だからか、キリスト教も数は少ないものの、比較的いい形で浸透していると思う。日本人が不倫を叩くのも根が倫理的というよりは、明治期に純潔思想が入ってきた影響でしょうし、NPOや慈善団体にもクリスチャンは実は多い。その影響を無意識のうちに受けているとしたら、悪いことではないですから」
 一方で父権性を前提とする教会社会は〈構造的に女性差別を内包している〉と問題提起する女性信者や、聖職者不足や高齢化を憂う声など、ここにはキリスト者や日本の今が確かにある。
「正直、洗礼を受けようかと思う瞬間もありました。自分の力とは思えないような出会いが重なった上に、『貴女の背中をイエス様が押してらしたわ』など、皆さんに言われますしね。
 確かに教会に通うことで生活に張りやリズムが生まれ、現実と違う位相に目を向ける効果もあるとは思う。でも私にはむしろイエスの死後、弟子達が迫害されながらもキリスト教を作り、イエスの言葉を述べ伝えた思いが凄く迫ってくるんですよ。そういう切実な祈りや人間の営みの方を、私は素晴らしいと思うんです」
 だからだろう。本書には幾多の困難に直面しながらなお神に問い続ける私達の隣人の姿が克明に記される。それぞれの物語にじっくり、1つずつ耳を傾けるのが、理想の読み方かもしれない。

●構成/橋本紀子
●撮影/国府田利光

(週刊ポスト 2023年3.3号より)

初出:P+D MAGAZINE(2023/02/23)

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