翻訳者は語る 古屋美登里

第29回

翻訳者は語る 古屋美登里

 コンピュータの実用書から医療や戦争を描く骨太のノンフィクション、エドワード・ケアリー等の文芸作品まで。幅広いジャンルで四十年近く活躍する古屋美登里さん。#MeToo を世界中に広めたNYタイムズ報道の記録『その名を暴け』は、ハリウッドの性的虐待事件を描き、日本でも昨年刊行されて大きな話題となりました。さらにこのコロナ禍のなか、翻訳塾を設立。力強い活動の源にどんな思いがあるのでしょうか。

〈「これは古屋が訳すしかない!」〉

 一昨年九月に原書のことを知り、「訳す人は大変だろうなあ」と思っていたところ、十月に新潮社から「ぜひ古屋さんに」と電話を頂き、まさか自分に、と驚きました。

 初めて原書を読み終えた時は放心状態。まるで一本の映画を観たようでした。辛い性被害の描写もたくさんありますが、ハリウッドの女優たちを始めとする女性たちが次々に声を上げ始める姿に勇気を与えられ、武者震いが起きましたね。日本でも同じことが起きているのに被害者が黙り続けたら大変なことになる、これは古屋が訳すしかない! と使命感に抱きすくめられて引き受けると、編集者から「半年後に出版したい」と。時代を切り取るジャーナリズムとして早く出すべきという意図は、私もノンフィクション本を訳してきたのでよくわかる。他の仕事を調整して昨年一月から取りかかり、何とか七月に出版出来ました。

〈「どこに当たるべきか」を知っておく〉

 翻訳にあたっては、たくさんの事実確認が必要でした。NYタイムズの当該記事や女優たちのSNSの発言など、膨大な資料を確認しなければならない。まずは私が一章を翻訳し、確認の必要な項目を添えて編集者に原稿を渡し、彼女が確認している間に次の一章を翻訳、資料が上がってきたら私が確認する……という流れで進めました。担当者は若いけれど優秀で調査が的確、法律問題については法学部出身のネットワークを駆使してくれてとても助かりました。ハリウッド事情は、映画に詳しい友人に相談しました。ノンフィクションを訳すには、「どこに当たればいいか」を知っておくことも大事ですね。

〈「セクハラ」という言葉を使わない〉

 翻訳書はそもそも人名、地名とカタカナが多いので、出来るだけカタカナを減らして読みやすくしたい、けれども減らしすぎると不自然になり、そのバランスが難しい。本書にも「キャスティング・カウチ」という、女優が役を得るためにプロデューサーの性的要求に応えるハリウッドの慣例を表す言葉が使われますが、無理に訳すとニュアンスが伝わりにくいのでカタカナのままにしました。

 逆に、「セクシャル・ハラスメント」という言葉はいっさい使わず、敢えて「性的嫌がらせ」「性的虐待」としました。これらの行為は被害者の心に一生残る傷をつける重大な犯罪。読者に「セクハラ」という言葉で軽く受け止めてほしくないからです。

 出版後、女性の友人の中には「辛くて最後まで読めなかった」という人もいました。その気持ちもよくわかる一方で、ジャーナリストたちのとてつもなく地道で膨大な取材によって巨悪が暴かれ、著者たちが鋭い爪を立てて加害者を追い詰めていく様子はスパイ小説のようなスリルもあり圧巻です。最後の二章は最高裁判事候補者による事件の告発の記録で、女優だけでなく一般人も声を上げ始めたことを描き、とても重要なパートです。「アメリカは修正する力がある」と希望を感じます。

〈どんなものでも訳せる翻訳者に〉

 このコロナ禍のなか、オンラインで翻訳塾を始めました。私自身は実は翻訳家を志したことはなく、大学卒業後、「早稲田文学」の編集をしている時に頼まれごとのひとつとして翻訳を始めています。その後も独学でやってきたので、「翻訳は自分で学べる」と妄信していましたが、早稲田大学で一年間翻訳を教えた時にとても評判が良く、周囲の強い勧めもあって始めることになりました。生徒は募集後、試験で十名に絞りました。講義は月に一回二時間、事前に課題を出して添削し、最優秀者の文章を画面で見せて進めますが、終わるとぐったりする密度の濃さで、まさに少数精鋭。

 私自身はある分野に特化した専門性の強い翻訳者ではなく、広い範囲でフットワーク軽く、時代を切り取るような翻訳をしてきました。そんな私が育てるのだとしたら、やはりどんなものでも訳せる翻訳者。一流のプロを目指してほしいですし、「文は人なり」というように文章に人柄が出てしまうので、文章に対する真摯な姿勢を身につけてほしいと思っています。
 

その名を暴け #MeTooに火をつけたジャーナリストたちの闘い

『その名を暴け
#MeTooに火をつけたジャーナリストたちの闘い』

著/ジョディ・カンター、ミーガン・トゥーイー
訳/古屋美登里

古屋美登里(ふるや・みどり)
D・マイケリス『スヌーピーの父チャールズ・シュルツ伝』、D・フィンケル『帰還兵はなぜ自殺するのか』、E・ケアリー『おちび』など訳書多数。

(撮影/中村由布子 構成/皆川裕子)
〈「STORY BOX」2021年2月号掲載〉

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