【著者インタビュー】波戸岡景太『映画ノベライゼーションの世界 スクリーンから小説へ』/映画と小説のただならぬ関係を紐解く!

小説が映画化すると不満を覚える人が多いように、映画が小説化しても不満をもつ人が多いといいます。しかし、才能を発掘したかったら、いまはノベライゼーションを読むべきであると、波戸岡景太氏は話します。

【ポスト・ブック・レビュー 著者に訊け!】

「読んでから観る」か「観てから読む」か――映画と小説のただならぬ関係に
知的好奇心が刺激される論考

『映画ノベライゼーションの世界 スクリーンから小説へ』

小鳥遊書房 2000円+税
装丁/坂川朱音(朱猫堂)

波戸岡景太

●はとおか・けいた 1977年生まれ。千葉大学卒。慶應義塾大学大学院後期博士課程修了。博士(文学)。明治大学理工学部教授。「理系の学生に語学と各々の専門領域を教えるのがこの教室で、実は教える側から芥川賞作家が3人も出ている面白いところなんです」。著書は他に『ピンチョンの動物園』『コンテンツ批評に未来はあるか』『ラノベのなかの現代日本』『ロケットの正午を待っている』『教師の悩みは、すべて小説に書いてある』等。172㌢、62㌔、AB型。

映画の小説版は時として映画本編への「従属」を拒絶し、主従関係が瓦解する

 明治大学理工学部総合文化教室のHPに、『映画ノベライゼーションの世界』の著者・波戸岡景太氏(43)は、〈私はふだん、アメリカの新しい小説や映画を研究しながら、理工学部の英語教育を担当しています〉〈一方で、研究者としての私は、言葉やイメージを人に届けることの難しさをテーマにしています〉と率直な紹介文を寄せる気鋭の学者だ。
 前作『映画原作派のためのアダプテーション入門』が〈小説の映画化〉を巡る違和感の解体書だとすれば、本書はその応用編。〈映画の小説化〉という、これまた厄介な文芸の歴史を紐解き、その魅力と可能性に迫る。
 そもそもadaptationとは生物等の〈適応〉を意味し、それが脚色や映画化を意味する専門用語に転じたとか。その成果をさらに活字にするnovelizationに関しても「大事なのはプロセス」と著者は言い、媒体を超えてなお物語ろうとする人々の営みを、面白がりこそすれ、否定するはずもない。

 専門は37年生まれの米国人作家トマス・ピンチョン及び、ポストモダン全般だ。
「70年代に一世を風靡したピンチョン以降、小説と映画の境目が薄くなり、研究の場でも小説を読み解くために映画を観る、、、、、、、、、、、、、、、ことが増えていきました。そんなこともあり、前著は『なぜ人は小説が映画化されると不満を覚えるか』について考えてみたのですが、その逆の『映画の小説化』でも不満な人は不満なんです(笑い)。
 それこそ『オリジナルなきコピー』がポストモダンのキーワードなのに、それでもオリジナルを求めてしまうのが人間の常。才能はオリジナルを作った個人に宿るという錯覚、、や、自分の好きな小説や映画を唯一絶対と思いたい心理が、たぶん皆さんの心をザワザワさせるんだと思います」
〈ウディ・アレンはノベライゼーションがお嫌い〉と題した序章からしてニクい。〈映画と同じことが小説でもできるし、その逆も可能〉と公言するアレンにして、ノベライズ本は論外らしく、短編小説「売文稼業」では主人公の自称純文学作家と自称大物プロデューサーにこんな会話をさせている。
〈ノベライゼーションというのは知っとるかね〉〈映画の数字がよかったときにだな、プロデューサーがゾンビを一人雇って、映画を本にさせるということだ〉〈空港とかショッピング・モールの棚に置いてあるガラクタを見たことあるだろ〉〈ああ〉
「要はアレン自身を彷彿とさせる主人公にノベライゼーションの依頼をしようというシーンなのですが、アレンは映画『マンハッタン』でも“ノベライゼーション=現代特有の愚かしい現象”と嘆いたり、とにかく偏見が物凄いんです。
 実はアメリカでは当時、『オーメン』(76年)の小説版が700万部売れるなど、大変なノベライズブームに沸き、自身も小説を書くアレンが近親憎悪をこじらせたのも仕方ない。ただ、『売文稼業』に登場する作家が結局は仕事を引き受けたのも、〈努力次第では、ノベライゼーションが芸術の域に達することだってある〉と説得されたからで、それも真理だと私は思うんです」
〈この文芸ジャンルに集った有能な書き手たちは、想像を絶するさまざまな物理的制約のなかで、映画公開時のみならず、後世に読み継がれるような作品をも残してきた〉と本書にはある。現にディーン・クーンツ等、ノベライザー出身の大作家は多く、「才能を発掘したかったら、今読むべきはノベライゼーションとラノベです!」と波戸岡氏は話す。
 日本でもノベライゼーションの歴史は意外に古く、中でもフランスの連続映画『ジゴマ』(1911年)の展開が面白い。江戸川乱歩も熱中したというこの探偵活劇を巡っては粗悪な和製映画やノベライズ本が量産され、活字との相乗効果で人気を過熱させていったという。
「1909年創刊の『活動写真界』の発刊趣旨が映画の粗筋を予め知る重要性、、、、、、、、、、、、、にあったり、日本人は映画を活字で読むことに結構早くから馴染んでいます。他にも米映画『名金』のノベライザーが荒畑寒村だったり、永井荷風が新作映画の筋書だけ、、、、発表していたり、大抵は欲が絡んでいますが(笑い)歴史が長い分野です」

映画の考古学として大事な存在

 また、映画本編より怖い小説版『ジョーズ2』や、内外でリメイクが相次いだ『ゴジラ』など、権利関係が複雑になればなるほど、物語本来の原型がノベライズ本だけに残されることも。
「記号学者エーコの対談書にもありました、ノベライゼーションは映画の考古学、、、、、、としても大事だと。映画の完成前に締切を設定されるノベライザーたちは、撮影過程で変更される前の脚本や数枚の企画書を元に小説化するしかない。時として小説版が映画本編への従属、、を拒絶し、主従関係が瓦解することもあり、そこも面白いですよね」
 自身、中学1年生の時に初めて『バック・トゥ・ザ・フューチャー2』のノベライズ本を購入。それを観る前に読み、、、、、、〈初めて目にするものばかりなのに、自分はすべてを知っているという、デジャブにも似た体験〉が、本書にも生かされたと言う。
 とかく難解になりがちなポストモダン論に関しても、波戸岡氏の場合は個々人の体験や「ノスタルジア」に訴えるアプローチが新鮮だ。一方に旧世代、一方に未来の人々からの郷愁すら見据え、双方から挟み撃ちする形で現代、、を照射してみせる。
「実はポストモダンの基本もノスタルジアにあって、モダンはもう手に入らない、、、、、、、、、、、、という感覚に基づいたわかりやすい話なんです。
 人は印象的な出来事に出会うと、それと似た経験を過去や未来に探して生きようとします。新型コロナの影響下の空気の中で、3・11の頃を思い出すとかもそうですよね。ハイカルチャーとサブカルの区別もあまり意味をもたなくなった現代において、小説でも評論でも、とにかく作品を生み続けることが、100年前と100年後のノスタルジアを繋ぐと僕は思うのです」
 ゴダールの『勝手にしやがれ』がリチャード・ギア主演『ブレスレス』としてアメリカでリメイクされ、さらにその仏語小説版が『勝手にしやがれ、メイド・イン・USA』となる事態を、〈過剰な商業主義的態度〉と揶揄するのは容易い。だが、本書の目的は〈正統的な「映画愛」の持ち主〉に疎まれ、俎上にも上らなかった作品の再評価にこそある。批判一辺倒の旧来的で20世紀的な態度からの解放を、波戸岡氏は後世のために飄々と目論むのだ。

●構成/橋本紀子
●撮影/国府田利光

(週刊ポスト 2020年4.10号より)

初出:P+D MAGAZINE(2020/08/15)

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