映画『MINAMATAーミナマター』のモデル【日本を愛した写真家ユージン・スミスを知る】
日本四大公害病のひとつ、水俣病を世界に伝えた写真家ユージン・スミスを描いた映画『MINAMATAーミナマター』が注目されています。日本と繋がりの深いユージン・スミスを知るための、オススメの3作品を紹介します。
高度経済成長期の日本で起きた、熊本県水俣市の日本窒素肥料株式会社(現・チッソ)水俣工場の工業排水を原因とした水俣病。それを世に知らしめたのが1975年にユージン・スミスが発表した英語版の写真集『MINAMATA』です。水俣市に3年以上暮らし、当時の妻、アイリーン・美緒子・スミスとともに取材を重ね、真実に迫った不朽のドキュメント。1978年に他界したユージン・スミスにとっての遺作となりました。
ユージン・スミスを熱演したジョニー・デップは「自分を犠牲にしてでも真実を追い求めた。(中略)彼は写真を通して意見を表明し、次の世代に影響を与えたんだ。たくさんの戦争写真家やジャーナリストが、スミスの写真に刺激を受けてリスクを恐れなくなった」と映画配給会社ロングライドの公式インタビューで語っています。
真実が、国境を越え世界を呼び覚ます。伝説の写真集『MINAMATA』
出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4909532668
映画の公開を機に、絶版となっていた日本語版写真集『MINAMATA』の新装版が発売となりました。出版から3年後にこの世を去ったユージン・スミスが最後に情熱をかけた作品です。世界へ与えた影響は勿論のこと、ユージン・スミスのフォトジャーナリストとしての姿勢を知る上でも、重要な写真集です。
当時、ユージン・スミスと妻のアイリーンは、あらゆる出来事を写真に撮り、記録するだけの予定で、水俣に住んでいました。しかし、水俣病患者やその家族と深く関わりあうことで、本という形にすることを考えるようになります。その後、完成した写真集『MINAMATA』について、「これは客観的な本ではない」と序文で記しています。ジャーナリズムのしきたりとしてある「客観的」という言葉に対し、ユージン・スミス独自の考えがありました。その考えによって、雑誌「LIFE」の編集者とたびたび衝突をした事を振り返り、ジャーナリストとしての責任のあり方について、このように話しました。
「ジャーナリズムにおける私の責任はふたつあるというのが私の信念だ。第一の責任は私の写す人たちにたいするもの。第二の責任は読者にたいするもの。このふたつの責任を果たせば自動的に雑誌への責任を果たすことになると私は信じている」
ユージン・スミスとアイリーンが水俣に行く直前、とある科学者に水俣は終わったのになぜ行くのか、と尋ねられたといいます。実際に水俣に行ってみると、ふたりは「終わっていない」どころか、「深刻さは増すばかり」という現実を見せつけられます。
水俣の状況にかかわる正と悪とを振り返って、いま私たちはこの本を通じて言葉と写真の小さな声をあげ、世界に警告できればと思う。
気づかせることがわれわれの唯一の強さである。
チッソ工場が海に流れでた有害物質によって苦しむ人々の姿には、その原因に対して、疑問の余地がありませんでした。人々だけでなく、水俣湾はヘドロでいっぱいになり、何世紀も守られてきた豊だった漁業までもが被害を受けました。激化した抗議運動、チッソ工場の社長の対応の様子、裁判の行方、水俣市民とチッソとの深い複雑な関係などだけでなく、水俣に住んだことで関わり合った家族や人の愛情や心にもフォーカスしました。
私たちが水俣で発見したのは勇気と不屈であった。それは他の脅かされた人びとを勇気づけ屈従を拒ませるのみならず、状況を正す努力へと向かわせるものであった。
詩的なキャプションとともに水俣病の子どもを抱く姿や、葛藤の渦にいる漁師の姿、数々の記録されたモノクロームの写真には「真実」と、人々の「純粋な心」までもが繊細に映し出されています。写真の持つ力を信じたユージン・スミス。忘れ去られてはいけない日本の真実を、時代を超え、人々の心に訴え続けていくフォトエッセイです。
かけた情熱、ぶれない信念『ユージン・スミス ~水俣に捧げた写真家の1100日~』
出典:https://www.amazon.co.jp/dp/B07MX7H491/
写真集『MINAMATA』でユージン・スミスと当時の妻アイリーンとともに約3年間アシスタントを務めた石川武志。そんな石川氏から見たユージン・スミスの話や、世界に衝撃を与えた写真の真相などについて、ノンフィクション作家の山口由美が伝説の写真集の裏側に迫った作品です。第19回小学館ノンフィクション大賞を受賞しています。
著者・山口由美の取材に同行する予定だったカメラマンの都合が悪くなり、代わりに担当することになったのがユージン・スミスのアシスタントをしていた石川武志氏でした。こうして導かれるようにして、ユージン・スミスについて、水俣について、取材をしていく事となります。
写真集『MINAMATA』の中でも、強い印象を与え、世界的にも有名な1枚の写真「入浴する智子と母」。封印されてしまったこの写真の問題について莫大な資料と被写体の家族への取材をもとに徐々に真実を明らかにしていきます。3年間共に過ごし、近くで見ていた石川氏はユージン・スミスについて、こう話しました。
「それまで水俣を撮っていた写真家とユージンが決定的に違っていた点、それは水俣病の酷さだけでなく、その子がどれほどの愛情に包まれているかとか、そうしたことを表現しようとしたことだと思うんです」
ジャーナリスティックなドキュメンタリーの仕事でありながら、ユージンの写真には、目の前の現実を写しとるだけではない、彼なりのイメージや世界観があった。
母子愛というテーマで、深く人々の心に残る写真となった、「入浴する智子と母」の裏で、ユージン・スミスが強く惹かれ、深く愛した水俣病患者がいました。田中実子氏です。写真集『MINAMATA』で「実子ちゃん」と題した写真のキャプションには、若くして失われてしまった未来への希望にに対して、強い純粋な想いが添えられています。
実子ちゃん:元気いっぱいだった子どもから生きる屍になったひと。
工業進歩の廃棄物が有用の人生から中絶した、愛しく
美しい人。呼吸している、忘れがたい、美しい19歳の乙女は
恋を知ることもないだろう。それでも複雑できわだった人間存在は
われわれの既存の正常世界には生きることができない。
彼女は歩けない。彼女は話せない。火のなかに
とびこんでも、熱さを感じないだろうといわれる。実子ちゃん:世界に反応するどんな人間とのかかわりも
あなたほどには私の心をかき乱さなかった。あなたを写真に
とるのは、実子ちゃん、たちまち変る心のうつろいをとらえる
ということで、嘆かわしい見誤りをしているのがこわい。
私にはあなたをとった私の写真はみんな失敗なのがわかる。『ユージン・スミス ~水俣に捧げた写真家の1100日~』より
このキャプションの原型となった手紙も本書には掲載されていて、その手紙の文章から紐解くユージン・スミスの作品について著者の山口由美はこう話します。
ユージン・スミスの自身の感情を写真に投影させる手法は、彼の写真の魅力そのものでもあったのだが、客観性を旨とすべきジャーナリズムの世界にあって、常に彼はその点を批判された。そのスタンスは、写真に添えられたキャプションや文章においても同じで、それらは、ジャーナリスティックというより、文学的で詩的であった。実子の写真は、彼のそうした部分が、まさに凝縮された作品だった。
アシスタントを務めた石川氏からの話だけでなく、水俣に行くきっかけとなった話や、水俣に住んでいた時のユージン・スミスの人柄がよく分かるエピソードも沢山つまっています。写真集『MINAMATA』と合わせて本書を読むことで、当時のユージン・スミスの置かれた状況が目に浮かび、彼の情熱とジャーナリスト精神を身近に感じることができる一冊です。
日本を深い愛で包んだ巨匠の人生『ユージン・スミス―楽園へのあゆみ 単行本 –』
出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4036450301
人間の光に焦点を当て、瞬間を撮り続けたフォトジャーナリスト、ユージン・スミス。日本を愛した彼の生涯をわかりやすく追った第41回産経児童出版文化賞受賞作品です。
1978年、愛猫のエサを買いにドラッグストアに行ったユージン・スミスはキャットフードの箱に手を伸ばしたとき、脳溢血の発作で倒れました。そして、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。
世界じゅうの50紙以上の新聞が、彼の死を報じました。
「写真界の巨星、ウィリアム・ユージン・ユージン・スミス、死す」
ニュースは、すぐに日本にもつたわりました。日本は、フォト・ジャーナリスト、ユージン・スミスがその59年の生涯のなかでもっとも愛した国だったのです。
ユージン・スミスは1918年12月30日、アメリカのカンザス州ウィチタで生まれました。若い頃に写真家を目指していた母親のカメラを渡されたことがきっかけで、写真を撮るようになります。写真の魅力に取り憑かれていたある日のこと、世界恐慌による不況のどん底が家族を襲いました。破産してしまった父親は自らの命を絶ってしまったのです。このことが、ユージン・スミスのぶれることのないジャーナリスト精神を作りあげました。
それまでユージンは、写真を撮る立場でしか新聞を見ていませんでした。(中略)新聞の紙面の背後には、おとうさんを亡くして悲しんでいる自分のような人間がたくさんいることに、はじめて気がついたユージンは、写真を撮るとはどういうことなのかを真剣に考えるようになりました。
写真の勉強を続けていったユージン・スミスは、のちに戦場カメラマンとして活動していきます。太平洋戦争に出向いたことが、彼と日本を結びつける初めての機会となりました。悲惨な戦争を目の当たりにし、日に日に嫌悪感を募らせていたユージン・スミス。ある日道ばたに倒れた小さな日本人の女の子を見つけます。そして、ひどい怪我をしていたその子を抱けあげ、14キロもの道のりを歩き病院に連れていきました。これが初めての日本人とのふれあいでした。
その後、日本の企業でのPRの仕事を任されることになり1年間日本で写真を撮り続けました。しかし、ユージン・スミスはこの時の仕事に満足がいきませんでした。 そして、そのことについてこう話しています。
「ぼくはけっきょく日本を理解することができなかった。理解できないままに撮った写真に満足することはできないよ。(中略)もういちど日本を撮ってみたいな。こんどこそは、うまく撮れると思うんだけど」
ふともらしたこのひとことが、ふたたびユージンを日本へとよびもどすきっかけとなりました。
そうして運命に導かれるまま、水俣に住み、写真集『MINAMATA』が誕生しました。ユージンは水俣についてこう語っています。
「環境汚染の被害に苦しむ水俣にいて、こんなことをいうのはおかしいかもしれないけれど、ここにいると本当に気持ちがやすまる。景色が美しいというだけじゃなくて、空気がゆったりしているんだ。気持ちがとても落ちついて、自分の心のなかのいろいろなものが見えてくるんだ」
日本を愛し、日本に愛されたフォトジャーナリスト。児童書ではありますが、大人でも読み応えのある本書は、ユージン・スミスの人生を丸ごと知ることができる一冊です。
おわりに
もしもユージン・スミスが水俣に来ることがなかったら、真実は永遠に封印されていたのかもしれません。日本にとって縁の深い人物ユージン・スミス。彼の撮る写真の魅力は、彼自身の持つ深い愛情やほとばしる情熱から滲み出ているのでしょう。
フォトジャーナリストとしての信念や姿勢は、多くの人々に影響を与えました。写真だけでなく詩的な文章や、彼自身の人柄、そして飾らない生き方には惹かれずにいられません。映画をきっかけにユージン・スミスを知った方や、知ってはいたけれどまだ書籍を読んだことがない方は、ぜひ手にとってその魅力を味わってみてください。
初出:P+D MAGAZINE(2021/09/22)