【『草筏』など】小説家・外村繁のおすすめ作品
第1回芥川賞候補になった『草筏』を始め、近江商人の世界を描いた小説や私小説の分野で活躍した小説家・外村繁。『草筏』や『澪標』など、外村のおすすめ作品のあらすじと魅力をご紹介します。
昭和期に活躍した小説家、
今回は、『草筏』に代表される外村繁のおすすめ作品を紹介しつつ、その魅力に迫ります。
『草筏』
出典:https://www.shogakukan.co.jp/books/09352428
『草筏』は、外村繁による長編小説です。外村は『草筏』を同人雑誌『世紀』に連載していた1935年、本作で第1回芥川賞候補に選ばれています。
外村は、滋賀県の南五箇荘村という、近江商人発祥の地として知られる土地の名家出身。実家は江戸時代から代々続く呉服木綿問屋で、両親は作家の道を志す外村をなかなか認めようとはしませんでした。外村は、一度は亡き父のあとを継いで商売に励んだものの、1933年、30歳で家業を弟に譲り、一念発起して創作活動に打ち込み始めます。『草筏』は、外村がそんな自身の商人としての経験をもとに執筆した、商家をめぐる物語です。
『草筏』は、近江商人の主人・藤村治右衛門を中心とした藤村家の人々を描いています。ある日、治右衛門の義子である普の母親代わりを務めていた美代という女性が、治右衛門の子を死産してしまいます。治右衛門の弟・真吾はそのことを普に告げ、怒りをあらわにします。
「知っとるか。昨日のこと」
「ううん。美代どうしたん?」
「子産みよつたんや。死んだ子産みよつたんや」
普は真吾の言葉の意味がはつきり判らなかった。普は懐手をしたまま黙つて叔父の顔を見上げていた。その長い顔には沢山の面皰が出来ていた。が、大人のようだと言われているその冷静な瞳は、恐しいほど光つていた。
「普! お前のお父つあんやぞ。お前のお父つあんが、美代に子産ませよつたんやぞ。宜いか、覚えとけ」
普は何の事か一層訳が解らなくなつてしまつた。美代は何故赤ん坊を産んだのであろう。
その一件をきっかけに、密かに美代に恋心を抱いていた真吾と藤村家との間に確執が生まれ、一家の歯車が狂い始めます。
『草筏』は、外村が自らの内側に流れる“商人の血”と向き合い、その根源を追求するようにして書いた作品です。この作品はのちに『筏』(1954年~1956年)、『花筏』(1957年~1958年)と合わせた三部作となりました。『筏』三部作は、商人の世界をリアルに描くとともに、外村の幼少期からの不安や葛藤を記した内面的な作品群となっています。
『夢幻泡影』
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『夢幻泡影』は、外村が1949年に発表した私小説です。
外村にはとく子という妻がおり、親から勘当同然の扱いをされた上で同棲生活を送っていました。とく子は度重なる妊娠や戦時下の貧しさのために衰弱していき、戦後まもなく脳軟化症で倒れ、44歳の若さで亡くなっています。『夢幻泡影』は、外村が、そんなとく子の苦しみや痛みに寄り添えなかったことへの罪悪感を吐露しつつ、在りし日の妻の思い出を振り返る作品です。
果して脳軟化症の再発による意識不明なのだった。しかし遅くとも二三日もすれば、意識は回復するだろうとの診断であった。(中略)
私は妻の枕許に腕組んだまま坐っている。
「とく、とくよ」
思わず、妻の名を呼んでみる。が、もとより何答えるはずもなかった。呼吸だけが、安らかに通っている。いかにも昏昏と眠っているようで、少しも重大さは感じられず、そうと決まれば、かえって医者の言葉がそのまま信じられた。
盥の中にも、美しい空の色だった。ポンプの水が跳り入ると、青空は青い破片となって、乱れ散った。しかし私がポンプの手を休めると直ぐまたぐるりと丸い青空になった。その中に、冬木の枝が綺麗な線を描いていた。しかし妻の汚れ物洗う私には、もう先刻のような不安の翳は消えていた。これだけは子供達にもさせられぬ、私の今日からの仕事だと、染み染みと思われた。
意識を失ったとく子の世話を淡々とする外村の描写からは、妻への深い愛情が感じられます。その後、看病の甲斐もなくとく子が他界してしまうと、外村は“胸の中にぽかんと穴が開いているような感じ”を覚えます。
亡くなった当座は、呆然として、却って朝から酒など飲み、いかにも夢うつつのようであったけれど、こうしてひとりになってみると、急に空洞の大きさが感じられる。不意に得体の知れぬ感情が湧き起こってきた。思わず、私は立ち上る。ぐるぐると部屋の中を歩いてみる。子供達の破れた靴下や、汚れたものが脱ぎ捨てたままである。
「春も過ぎ、夏もくるのに、冬の支度をどうしよう」
病床の妻はよくそういったものだった。が、その妻も死んでしまったではないか。なにごともなるようにしかなりやしない。今年の冬は、そらこんなに暖いではないか。それよりこの自分をどうしよう。
装飾のない、率直な言葉遣いからは、外村の悲しみの大きさがそのまま伝わってくるようです。外村らしい無常観や死生観がよく表れた1作 ですが、1度 でも大切な人や家族を失ったことのある方であれば、深い共感とともに読むことのできる作品のはずです。
『落日の光景』
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『落日の光景』は、外村が1960年に発表した私小説です。外村はとく子亡き後の1950年に金子ていという女性と再婚しますが、1957年には外村が、1960年にはていが相次いで癌と診断され、夫婦で闘病生活を送っていました。『落日の光景』は、病とともにあったふたりの生活を描いた作品です。
外村は、乳がんで放射線治療を受けている妻の病室をたびたび見舞います。妻が手術で腫瘍を切除することになると、外村は強い言葉で彼女を励まします。
「私、何度でも切ってもらう。徹底的にやってもらう」
「そうだ。切ると言われれば、切ってもらおうね。何も彼も、病気のことは医者まかせだ」
駅前の広場を越して、斜め真直ぐに、一本の道が通じている。私は躊躇なくその道を歩いて行く。道の両側には商店が軒を接して並んでいる。いずれの店頭にも種種雑多な商品が、豊富に積まれている。しかしどこの商店街でも見られる、中小の小売屋である。戦後、復興されたものらしく、街全体にも陰翳がなく、至って表情に乏しい。毎日、往復するのには、あまり愉しい道とは言い難い。
しかしこの頃、私はできるかぎり歩くことに努めている。少しでも足を強くしたいからである。年寄の冷水と笑われるかも知れない。しかし妻のために、私は少しでもより健康になりたいのである。
“妻のために、私は少しでもより健康になりたいのである”という外村の素直な思いは、読者の胸を打ちます。本作の中で描かれる妻の闘病生活と、それを支える外村の様子は非常に淡々としていて、悲しさよりもむしろ、力強さや明るさを感じさせるものです。
外村は、妻の入院する病院で、癌に侵された患者たちが体に挿さった管を通じて食事をとる様子を目にし、一瞬“愕然と”します。しかし、
生きている以上、更に作家として生きている以上、私は自分のいかなる運命からも目を逸すわけにはいかない。私の神経は揉みくちゃにされながら、その度に太太しくなって行ったようである。私も、妻も、再発の危険を十分に潜めている、この病気の経験者である。これ等の人人と同じ運命が、いつ私達を待ち受けているか知れやしない。しかし私はもう先刻のような恐怖は感じない。
と、自分自身と妻を鼓舞し、“運命から目を逸らさずに”いようと決意するのです。いたずらに切なさを煽るような作品ではなく、死が目前にあることを受け入れた人ならではの静けさと諦念、強さが際立つ一作です。
『澪標』
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『澪標』は、外村が1960年に発表した私小説作品です。外村は1961年、本作で読売文学賞を受賞しました。
“私小説の極地”とも呼ばれる本作は、幼い頃からの外村の性体験や性的なものに対する考えを記した作品です。子どもの頃、地獄絵に描かれた女亡者たちを見て初めて“女体”を感じたという記憶を起点に、女中や小学校の先生たちに性的な魅力を覚えたという話や、最初の妻・とく子、二番目の妻・ていの話に至るまでが、ときに唖然とするほど赤裸々に綴られています。
特に、癌の治療を経て“不能者”になったと言いつつも、むしろ色情はあると語る50代以降の話がユニークです。
私は既に五十七である。五人の子供も成長した。不能者になったことに気づいた当初は、むしろさっぱりした気持になった。やれやれといった感じでもある。しかし妻には何となくすまないと思う。妻は三十九まで独身であった。私との彼女の性生活は僅か十年にも足りない。哀れである。(中略)幸にも、とはいえないが、女性の性欲の発し方は受動的でもある。或は妻は私以上に、やれやれと思っているのではなかろうか。
しかし性欲的不能者といっても、色情はある。つまり全く欲望がないわけではない。或は微弱ながら、性欲も潜在するのかも知れない。しかし彼等の色欲はいつまでたっても満たされることがないから、却ってひどく好色的になる。(中略)満たされぬ性欲が、妄想となって、夢遊病者のように、この地上を徘徊するのである。最早、肉体は抜殻に等しい。
勿論、私もその例外ではあり得ない。自分ながら呆れるほど、私は好色的になっている。道を歩いていても、着物の裾から覗く女の脛を、私の目は見逃しはしない。スカートに包まれた女の尻が、歩くにつれて、左右交互に動くのを、私の目は直ぐに捉えて離さない。女の裸足も好色的なものである。小指の跳ね返ったの、親指のまん丸いの、土ふまずの深いのは清楚な感じであるが、却って擽ってみたくなる。土ふまずの浅いのはいかにも鈍臭いが、げてもの的好色をそそる。
現代の目から見ると思わず顔をしかめたくなるような描写ばかりですが、このような率直な筆致もまた外村作品の魅力のひとつです。だらしなさや情けなさを隠そうともしないこのような作品は、『落日の光景』や『夢幻泡影』などの美しく力強い作品とはまた違った魅力をたたえています。
おわりに
外村繁の作品には生に対する無常観や諦念が貫かれていながらも、同時に、人に対する深い愛情や執着も感じられます。静かで端正な文体の中に無常観と深い愛が矛盾なく共存していることが、外村作品ならではの魅力と言えるでしょう。
私小説的作品に関心のある方や、性愛や闘病の赤裸々な記録を読んでみたい方は、ぜひ一度、外村作品を手にとってみてください。
初出:P+D MAGAZINE(2021/12/10)