採れたて本!【デビュー#15】

採れたて本!【デビュー#15】

〈二一二三年十月一日ここは九州地方の山おくもうだれもいないばしょ、いまからわたしがはなすのは、わたしのかぞくのはなしです。ほんとうははなすじゃなくてかくだけど、一〇一年まえにおとうさんがわたしにかぞく史をかいてほしいっていったのはこれからかぞくがひとりひとり年をとって死んでいくんだけど、ゆう合手じゅつをうけてながいじかんをいきれるわたしはやることがなくてひまだろうから、かぞくが死んでいくそのつどそのつどこつこつかいていくといいよひまつぶしにねってことだったのですが、わたしはかくよりもおしゃべりのほうがずっとすきでついさい近までシンちゃんがいてくれたからずっといろんなことをシンちゃんにおはなししてたのしかったので、かぞく史のことはすっかりわすれてました。でもシンちゃんもこのあいだ死んでわたしのはなしをきい――〉

 ……と、こんな具合に始まるのが、みや改衣かいのデビュー作『ここはすべての夜明けまえ』。著者は1992年、大分県大分市出身。本作は第11回ハヤカワSFコンテストの特別賞を受賞し、SFマガジン2024年2月号に一挙掲載されたのち、単行本化された。

 引用した冒頭部分は本書の表紙にそのまま印刷されていて(裏表紙にも、本書の別の箇所が400字近く引用されている)、この文体のアピール力が最大のセールスポイントと見なされているらしい。分量的には400字詰め原稿用紙にして180枚ほどの中編だが、この独特の文体もあいまって、たっぷりした読み応えがある。

 こうして〝家族史〟を語りはじめる〝わたし〟は、1997年生まれ。2022年、父親にすすめられて体を機械に置き換える融合手術(サイボーグ化処置)を受け、25歳の外見のまま永遠に老化しなくなる。それから1世紀を経て、〝わたし〟は父の言葉を思い出し、家族の歴史を手書きで綴り始める。

 漢字を書くのは面倒という理由から、文章にはやたら平仮名が多い。そのため、ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』としばしば比較されるが、同書の主人公チャーリイ・ゴードンと違って、〝わたし〟の知的レベルは最初から高く、誤字はない(ら抜き表現はある)。文章を書き慣れているわけではないという設定なので、最初は読みにくいかもしれないが、巧まざる名文というか、独特のリズム感があり、ハマったらクセになる。

 サイボーグ化処置を受けて不老長寿になった主人公の心の動きは、どこか生身の人間とズレているようにも見え、そのズレが人間の長所や短所を映し出す鏡として働く。

 まわりの人間たちが年老い、死んでいくのに、彼女だけはずっと変わらない。漫画『葬送のフリーレン』(山田鐘人原作/アベツカサ作画)のエルフとも共通する長命の悲哀が物語全体の通奏低音になる。

 物語の縦軸は、機械の体で生きる彼女と、生身の体で生きる恋人(彼女の実の甥にあたる)〝シンちゃん〟との関係。さらに、物語が進むにつれ、彼女と父親の関係もクローズアップされてくる。家族の闇がえぐりだされるイヤミス的な展開と言えなくもないが、SFでしか書けない部分に小説の焦点がある。

 その一方、語り手が1997年生まれだという点を利用して、同時代小説的な要素も投入される。たとえば、語り手がまだ生身の人間だった頃に強い影響を受けたものとして引用されるのが、2015年に YouTube に投稿され大ヒットしたボカロ曲「アスノヨゾラ哨戒班」(制作者の Orangestar が自分と同じ1997年生まれだと知って語り手はびっくりする)。

 それと一緒に出てくるのが、同時期にたまたま YouTube で見たという動画「電王戦FINALへの道」。プロ棋士の永瀬拓矢(当時六段)が、将棋ソフトとの対戦について人間側の心構え(一歩一歩積み重ねること)を語るのを観て、人間の特性を言い当てているのではないかと〝わたし〟は直感するが、それは逆説的にこの小説自体に対する分析にもなっている。いろんな意味でじつに周到に組み立てられた、おそろしく切実な〝人間の物語〟。ふだんSFを読まない人にぜひ読んでほしい。

ここはすべての夜明けまえ

『ここはすべての夜明けまえ』
間宮改衣
早川書房

評者=大森 望 

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