連載第23回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

映像と小説のあいだ 第23回

 小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
 もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
 ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない──!
 それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
 本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。


『火垂るの墓
(1988年/原作:野坂昭如/脚色・監督:高畑勲/制作:スタジオジブリ

「節子、何舐めとるんや。これおはじきやろ。ドロップちゃうやんか。」

 映画『火垂るの墓』は野坂昭如の同名原作をアニメーション化した作品だ。大筋は両者とも変わらない。

 戦後すぐ、神戸の三ノ宮駅構内で十四歳の清太が衰弱死するところから物語は始まる。彼の所持していたドロップの缶を駅員が捨てると、中から遺骨が転げ落ちた。それは清太の妹・節子の遺骨だった。節子も少し前に、同じく衰弱死していたのだ。

 そこからは、どのようにして二人は死に至ったのかの顛末が描かれていく。ここでの流れも、原作と映画は同じだ。太平洋戦争末期の神戸の空襲で兄妹は病身の母と離ればなれになり、清太は節子を連れて逃げる。たどり着いた学校で、清太は昏睡状態の母に会った。母は病院に収容されるも、翌日に死亡してしまう。

 二人は西宮の親戚の家へ居候することになった。だが、そこで酷い扱いを受けたことで家を出て、近くの池の畔にある横穴で二人だけの暮らしを始める――。

 凄絶な空襲の様子、母親の無残な遺体、親戚の小母の厳しさなど、詳細な描写に至るまで映画は原作の描く悲惨さを見事に映像化している。ただ、大きく異なる点がある。それは、兄と妹の交流の様子だ。

 原作にももちろん描かれてはいるが、短編小説というのもあり、詳細な描写の分量は少ない。そのため全般的には、破滅に向かっていく兄妹の姿が淡々と描かれているという、乾いた印象が残る。一方、映画にはどこか温もりが強くある。

 その要因としては、節子のキャラクター像に若干の脚色がほどこされている点が大きい。原作でも節子はことあるごとに弱音を吐いたり、泣いたりもするのだが、それでもどこか大人びて凛としたところがあった。一方の映画では、節子の無邪気さが強調されている。

 たとえば、親戚の小母が母の形見の着物を米と交換することを提案してきた際には、清太は喜んで応じる場面。その時の節子の様子は原作には描かれていないが、映画での節子は泣きながら必死に止めようとしている。そうでありながら、いざ久しぶりに白飯がよそわれると、一気に食べてお代わりまで求めている。この子どもらしい直情的な描写も、原作にはない。

 そして、映画ではこうした節子の直情的な原動を、物語を動かすトリガーに据えている。それは、横穴で暮らすようになる後半に入ってから特に顕著だ。

 たとえば、蚊帳の中を少しでも明るくするために清太が蛍を捕まえる場面では、「真っ暗やし怖い」というセリフを受けて「蛍、捕まえよか」と行動に移している。また、清太は農家から食糧を盗むことになるのだが、これも「うちな、お腹おかしいねん。ずっとビチビチやねん」というセリフを受けたものだった。

 いずれの場面も、原作では清太の思いつきの行動としてのみ描かれている。それに対して映画では、そこに節子自身の心情を露わにしたセリフが新たに挿入されることで、「節子のため」というニュアンスが強くなり、清太の愛情がより明確に伝わることになった。

 そして、映画ならではの兄妹の関係性を示す象徴として登場するのが、ドロップ飴の缶だ。原作では、この缶は節子の遺骨を入れる容器としてのみ、冒頭に登場する。だが、映画はこれに大きな意味を与えているのである。

 冒頭から、早くもクローズアップされている。ドロップの缶から出てくるのは節子の遺骨ではなく蛍――というファンタジー性あふれる描写で、まずその存在を強く認識させているのだ。そして、まだ元気だった頃の清太が、落ちていた缶を節子に渡す場面を経てタイトルが出る。続くタイトルバックの映像は、電車の中でドロップを分け合う兄妹の姿が描かれる。その背後では空襲の光が夜空を照らしていた。空襲、すなわち「死」の描写と対置されていることからもわかるように、ドロップは二人の「生」であり「幸福な日常」の象徴として位置付けられているのである。

 その後も、二人の数少ない幸福な場面にドロップは出てくる。たとえば池の畔で蛍を捕まえる場面。辺り一面を蛍が囲む幻想的な光景の中、清太が節子にドロップを食べさせると、節子ははしゃぎ回る。また、兄妹で海辺で戯れた後にも、二人はドロップを頬張る。泣きじゃくる節子はいつも、ドロップを舐めさせると落ち着く。飴がなくなっても、清太は空いた缶に水を注いで砂糖水にして節子に飲ませる。すると節子は「味がいっぱいする!」と喜んだ。こうした描写は、いずれも原作にはない。

 ドロップや缶のカラフルな色合い、そしてそこからイメージされる甘い味わいが、ファンタジックで優しい印象を観る者に与え、ひたすら残酷でしかない兄妹の顛末にせめてもの救いをもたらすことになったのだ。

 終盤になり、その存在はさらに大きくなる。満足な食糧が得られない中、節子は衰弱していった。そんな節子に清太は「なに食べたい?」と尋ねる。ここで節子が答える食べ物のリストは、原作も映画も途中までは同じだ。が、映画は最後に一つだけ加えている。それが「またドロップなめたい」だった。

 だが、この状況下では最早それは叶わぬことであると清太も観客も知っている。つまり、かつてあった「幸福な日常」はもう節子には戻らないことを、この叶わぬ希望を示すセリフが象徴しているのである。

 そして、ようやく食料を手に入れて、横穴に戻ってきた清太は、横たわる節子が美味しそうになにかを口にしているのを目にする。そこで清太が発したのが、冒頭に挙げたセリフだ。

 幸福の象徴であるドロップはもはや無く、空想の中にしか存在しない。しかも、節子はその違いすら認識できていない――。見事なまでに絶望感を際立たせるアレンジである。

 映画は「戦後」が訪れた人々と、それを享受することなく終わる兄妹の対比とともに終わっていく。実に残酷だ。だが、原作に比べて、余韻もまたどこか温かみが残る。それは、節子とそれに続く清太の死が容赦なく描かれて原作が終焉したのに対し、映画には新たに加えられた描写が二つあるためだ。

 一つは、節子の最期の様だ。原作が呆気ない幕切れなのに対し、映画での節子は辛うじて意識のあるうちに清太の差し入れたスイカを口にしており、生前の最後に発した言葉は「おいしい」だった。

 そして二つ目は、エンディングの直前だ。ここでは、それまで描かれることのなかった「横穴で清太の帰りを待つ節子」の姿が描かる。花を摘んだり、裁縫をしたり、池面に写る自分自身とジャンケンをしたり――。その際の節子はいずれも、物語中では目にできなかった、活気のある様を見せてくれている。

 こうした描写の数々は、端からは貧しいだけの生き地獄にしか思えなかった暮らしにも、かすかながらも彼らなりに幸福な時間があったのだと教えてくれる。原作に比べて、まだ救いがあるのだ。だが、それだけに失われたものはより大きくもなっている。終幕とともにそう気づかされることで、節子の結末がより残酷なものとして強く突き刺さってくることになった。

【執筆者プロフィール】

春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。この作品で第55回大宅壮一ノンフィクション大賞(2024年)を受賞。

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