◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第12回 前編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第12回 前編

天明六年の江戸に訪れた大きな政変。
大金を投じて新造した弁財船には次々と海難が──

 

     三十八

 天明六年(一七八六)、八月半ばを過ぎると江戸市中はその話題一色に染められた。

「公方(くぼう=将軍)さまが病に倒れ、しかもかなりの重体で再起は望めない。諸悪の根源たる田沼意次は後ろ楯をなくし自害した」。あるいは、「田沼は死んでいないものの厳重な見張りをつけられ、神田橋の屋敷で幽閉されている」。

 第十代将軍家治(いえはる)は、この年五十歳を迎えた。毎月十五日は、「月次御礼(つぎなみおんれい」といって、参勤交代で江戸に駐在する諸大名が登城し将軍と面会する式日だった。家治は二十四歳で就任以来、健康に恵まれ、二十六年間一度も月次御礼を欠くことがなかった。ところが、この八月十五日の月次御礼を感冒を理由に初めて欠席した。同時に、これまで将軍の診療にあたっていた奥医師が河野仙寿院(こうのせんじゅいん)から大八木伝庵(おおやぎでんあん)に交替した。河野仙寿院は、田沼意次の息がかかった大坂西町奉行の佐野政親(まさちか)と義兄弟で、意次とも結びつきが強かった。奥医師の交替は、将軍の病状がいっこうに良化を見ないことを意味した。

 同月十九日、田沼意次の推挙によって今度は日向陶庵(ひゅうがとうあん)と若林敬順(けいじゅん)が奥医師となり、大八木伝庵に替わって将軍家治の治療にあたることとなった。ただの風邪でないことはもはや明らかだった。

 八月二十日にいたり、江戸城は常にない慌ただしい動きを見せた。将軍職を後継する世子(せいし)の徳川家斉(いえなり)が登城し、御三卿の清水重好(しげよし)と一橋治済(ひとつばしはるさだ)、田安家出身の松平定信も登城した。

 二十三日、御三家では、水戸の徳川治保(はるもり)が登城し、尾張の徳川宗睦(むねちか)、紀州徳川治貞(はるさだ)からの使者も江戸城へ駆けつけた。

 二十四日、幕府がこの六月に発した全国御用金令が取りやめとなった。前月十二日からの関東大洪水による甚大な被害により、御用金を出す余裕など民百姓にあるはずがなかった。この暴政も、原惣兵衛なる元浪人の発案になったものを田沼が取り上げたものだった。同時に、大和(やまと)の金峰山(きんぷせん)における金山開発も中止となった。洪水で無に帰した下総(しもうさ)印旛沼(いんばぬま)の干拓工事も中止と決まった。印旛沼干拓にはこれまで一万両もの経費がつぎ込まれていた。

 原惣兵衛も、印旛沼干拓を再提案した地元代官の宮村孫左衛門(まござえもん)も、元をたどれば氏素性のさだかでない一獲千金を夢見る山師に過ぎなかった。田沼意次は、こと開発となれば胡散臭(うさんくさ)い山師を好んで取り立て、結果として全国の民百姓に困窮をもたらしただけだった。

 いくら世間から悪態を浴びせられようと田沼意次が強引に政策を進められたのは、将軍家治の後ろ楯があったためである。将軍家治の意次に対する信頼には絶大なものがあり、意次は思うままに山師算段を実行に移した。

 その意次の開発計画が相次いで立ち消えになった。江戸城内の異変は、思いがけず民百姓の願いを現実のものとした。

 願ってもない報せが巷間に流れたのは、八月二十七日だった。ついに田沼意次が老中を辞職し、雁之間(がんのま)詰めの一大名となった。浅間山噴火、大凶作による大飢饉、そして関東八国の大洪水、近年相次ぐ天変地異は、みな政事(まつりごと)の不正によって引き起こされた天罰である。意次は、悪政をほしいままに実行し民を困窮に追いやるばかりだった。その責任をとらされるのは当然のことである。

 しかし実際には、悪政を指弾され罷免されたのではなく、病を理由に辞職を願い、それが認められたものだった。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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